あしがら農の会設立の頃

   

今年、農の会も20年である。私が山北に移住したのが、農の会を始める7年ほど前のことである。すぐ思い出せるのは、まだ昭和であり、大島の噴火の火が開墾していた畑から見えたことである。7年間開墾し、畑や田んぼを作り、自給の暮らしを確立したことになる。その面積や労力を計算してみると、日本は自給できる国だと言う事が分かった。少し人口が多い。優良農地に住宅が広がってしまった。しかし、まだ500万ヘクタールの農地がある。今なら何とかなる。やってみる価値がある。こんな考えを持つようになる。たまたまお隣に、MOAの川口さんという方の畑があった。その方が、田んぼをこんな条件の悪い場所でやるなら、下の町の方でやらないか。こういう話を何度もされた。川口さんはMOAの地域ごとに自然農法グループを作るという方針に従い、それに私も入れということだったと思う。それで、山北有機農業研究会という名前で、山北の生活改善クラブ方々と一緒に活動を始めた。今でも川口さんは農の会のメンバーである。それが20年まえのことだ。

それらの動きを、酒匂川グリンフォラムを一緒にやっていた山田純さんに話した。そこから徐々に今の農の会が形作られることに繋がったと思う。当初から活動を作り出すというより、田んぼや畑をやると言う事が主目的だった。私を外に引っ張り出してくれて、スタートを切ることができたのは、宗教活動と環境活動だったことが今になれば印象深い。誤解があるようなので、明確にしておきたいが、政治的意味合いも、関係も全く無かった。他所からの呼びかけが無ければ、今でも、山北の山奥で自給自足で暮らしていたかもしれない。結局町で田んぼを始めようとしたのだが、水利組合から自然農法でやるなら、水を分けてやるわけにはいかない。こういう事になった。他の田んぼを探したが、結局見つからなかった。それでも、あちこちにみんなで見学に行ったり、ぼかし肥作りやマイタケの自然栽培の実習をしたり、細々と活動は続けていた。成田自然農法研究会に自然養鶏を見学に行ったこともある。その時、坊所でキウイを作っている石綿さんと知り合う。

その頃、CLCAという組織の事務局になった加藤さんが尋ねて見えた。加藤さんも農業に興味があり、高校生の頃には、実際に農業をやったこともあるなど話していた。酒匂川グリンフォーラムで山北の奥の不老山の山間の塩沢の田んぼの跡地でイベントが行われた。お年寄りから昔の暮らしを聴く会があった。その田んぼ跡地が借りられないかという事になり、CLCAの代表の和田さんの親戚が谷峨のお寺なので、頼んめば借りられるだろうと言うことになる。それで、CLCAと一緒に田んぼをやることになる。ここで、水土社の岩越さんや内山の瀬戸さんと知り合う事になる。何年かやるが、収穫を問わずという意味が合致しない。お金を集めて子供が田んぼ体験をやれればいいというのと、農の会の自給自足の意味が違いすぎる。それでCLCAとのかかわりは止める事にする。加藤さんが辞めたという事もあった。

山田さんと話しているうちに、産廃処分場は弱い地域に出来る。地域を強くするためは、放棄農地を出してはならない。それが、採算的に農業者に出来ないのだから、市民が農業に入るようにならなければならない。農の会を耕作放棄地を無くす組織としてして行く必要があるとなる。その頃から自分達が、やれればいいということから、農の会を地域農業の新しい形の組織にすることになる。その時農業を始めていた加藤さんを誘った。当初加藤さんは誘いを固辞していた。風の谷農園というようなものを独自にやりたいと言う事だった。その頃の農の会には他所から来た人しか居ない。地元出身の加藤さんに加わってもらう必要があり、代表という事でお願いした。何故、今さら立ち上げの頃の事を書いてみたかと言えば、京都の方から、自然農法の田んぼを始めたいが、借りられない。というメールがあった。それで、私たちが当初どのように田んぼを始めたかは、どこかで新しく田んぼをやろうと言う人の参考になるだろうと思った。

 - あしがら農の会