国民的議論2
官邸前で反原発を訴えている団体の代表者に野田首相が8日にも会うことについて、「私は反対だ」と枝野氏が述べた。現状では延期と言う事になっている。「公平性や透明性を考えるなら、意見聴取会やパブリックコメントという(国民)すべてが参加可能な仕組みがある。誰かとだけ(面会を)やると、誤解を招く可能性がある」一つの考え方だ。以前国民的議論がいかにまやかしの仕組みだという事を書いたが、一通り慧額が終わって見て国の考える議論と言うものが、実質の伴わないものであったかが痛感されている。議論を民主主義の原点と考えているものとして、議論という言葉が通過儀礼に使われたことが実に腹立たしい。枝野氏によると、すべての国民が参加可能な方法とされているのが、パブリックコメントである。私も参加した訳だが。果たして、議論に参加したということになるのか。一体だれかが私の意見を読んでくれているのか。読んだとか、意見を頂いたとかいう反応は全くない。
すべてのパブリックコメントに反応がないかと言うとそういうことでもない。貴重な意見を頂いたという返信メールのような反応の場合もあるし、きちっと回答をしてくれたものもある。どう改善したかとか、どうして取り入れられないかとか、そう言う意見まであった場合もある。今回は、一番多いい、届いたのかどうかさえ反応のない。つまり通過儀礼方式である。枝野氏が言うようにこれが国民的議論と言うなら、全体の報告をパブリックコメントを出した全員に送るのが、最低の礼儀である。礼儀がないのを承知で意見を出したのはいたたまれないからだ。それで何か意味があるなど思わないことにしている。何度も、厭な思いをしてそう思う事にした。それはデモに参加する時もそうだ。デモに出れば何かが変わるなど思ったことはない。もう叫ばずにいられないからでもに行くだけだ。何も変える気も無いくせに、デモの代表者に会うというデモンストレーションがいかにもである。
議論をするということはどういうことか基本を考えてみる。言葉の意味から言えば、互いに自分の主張を論じて、戦わせることとなる。国民的議論と言えば、原子力発電をどのような位置づけにするか。互いの意見を論じることになる。議論には、それなりの決まりと言うか方法論が必要である。それが無ければ、議論が何のために行われるのかが見えてこない。今回の国民的議論が、実質のあるものであるなら、それぞれが意見を述べて、互いの意見に対し質問をすることが最低限必要であろう。私のように脱原発で行くべきとするなら、その時の経済の状況をどう考えるのか。聞いてみたいものである。脱原発の経済的影響をあらゆる角度から想定する必要がある。この枝野氏と私は同意見で、再生可能エネルギーを新産業にすべきと考えている。20から25%は原子力で行くと考える人なら、そのリスク管理法について聞いてみたい。互いの意見を表明し、違いを認識する。そして、その違いの原因を互いに掘り下げる。そして、その違いを乗り越える第三の道を互いが模索する。
議論の先には、互いの意見の相違を越えた、未来の可能性が待っていなければならない。前向きに問題を解決するための議論が必要だと思う。それには、双方が質問をし、回答をし、問題点を煮詰めるという所まで行くのがまず第一歩である。そもそも日本の議会ではそういう議論がない。だから、今回国民的議論ときれいごとを言った時に、その方法がまるでセレモニーでしかないことが、すぐに露呈した。日本の現代社会に議論が失われたということは、残念な現状である。かつての日本社会は、地域社会で、泊まりがけで議論をしたという歴史がある。私の住んでいる久野には「小田原評定、久野寄り合い」という言葉がある。とことん話し合う事を意味する。社会に議論は必要なものだ。現代社会が議論を止めたのは、議論をすることを恐れているからだ。意見が違う事で、排除する空気を感じるからだ。議論の文化を再生させる必要がある。