自己責任論
自己責任という事をとても大切に生きてきたはずだった。悪いことも他人のせいにしない。こういう考え方で、自分の生き方を決めてきたつもりだった。すべてを自分の問題として考えるこにしてきたつもりだった。「そうでもなかった。」果たすべき大事な責任を果たさずに来ていたということに、今さらながら責められる。自己責任論がおかしな形で使われだしている。自己責任を他人に要求する考え方とでもいうのだろうか。自分の責任を放棄した人の考え方だ。例えば、政府が津波が来たら、自己責任で避難して下さい。こういう主張をするのは間違っている。確かにいざという時に判断しなければならないのは自分自身である。政府が指示をしてくれなかったとか、逃げる場所を確保してくれなかったとか、そう言う事を考えてみても、死んでしまえば終わりだ。それでも、政府は住民の安全に対して責任があり、自己責任で逃げてはならない。
暮らしている舟原はほぼ全域が、土砂災害危険地域という事が指定された。今の所どこに逃げるかも決まっていない。危険な地域とだけ行政は告げた。それで責任を果たしたと言えるだろうか。自主避難場所という看板だけは、もっとも危険とされた公民館に今でも掲げてある。さらに3キロ近く離れた、久野小学校が一応現在の避難場所である。舟原から、行くとなると、川沿いの危険地域を通ることになる。危険と宣言するときには、対策まで同時に出さなければならない。少なくとも今後のスケジュールを具体的に示す必要がある。現状では舟原の住人は、久野小や公民館は駄目だと考えている。ここまでである。社会とは何なのだろう。地域とは、小田原市行政とはどういう責任の範囲のものだろう。危険であるならば、何が出来るのか、山の再生。上流部の和留沢に雨量計の設置。安全な避難場所として、諏訪野原公園、フラワーガーデン、そして、焼却場等が近くにある。地域の緊急時互いの連絡先など早く体制を確立すべきだ。
災害のことに限定したことではない。食べ物の安全が放射能で揺れている。飼料の化学合成添加物の残留のことも、あるいは、ホルモンなどのかく乱物質。土壌汚染のことなどもある。すべてを、考えてこの位ならばという線を引いて食べて行くしかない。神奈川県の農政担当者に、農地での農薬の残留についての期間を質問した。大気だって農薬汚染されている。全くの清浄な状態などない。だから、そんなに細かなことにこだわっても意味がない。というような意見を言われた。確かに田んぼをやれば、水に何らかの物質が混入している。そもそも土壌は安全なものだけで出来ている訳ではない。先日もホルムアルデヒドの水道水への混入が問題になった。田んぼであれば大半が見逃されているだろう。神経質になリ過ぎれば、耐えきれないような状況があるのは事実だ。しかし、政府が安全のラインをご都合主義の暫定値で、でたらめにして信頼性を失った。この付けが波及している。
全体が良くならなければ、自分も良くならない。しかし、それまでの間は、妥協的ではあるが自分なりのラインを引く。それは生き方の問題なのかもしれない。これは考え方かも知れない。自己責任論の背景には格差社会があると考えている。努力が足りないお前自身の努力の問題だ。社会的な責任というものを隠そうという方向である。暮らしてゆく条件に対して、社会が責任を取れなくなっている。これは江戸時代よりも今の方が、責任を取ってくれていない。原子炉事故で良く分かった。国の経済の為には、住民の命は粗末にされる。自分のことは自分で決めない限り暮らしてゆけない不安な社会。だから、みんながつらい気持ちで暮らしている。自分のことで精一杯で、前向きに成れない社会。こういう時こそ、仲間だと思う。同じ気持ちの大勢の人が、何とかしようと黙々と頑張っている。それが励みである。