江戸時代の天皇
江戸時代の天皇とその周辺の人たちは、一言で言えば類まれな文化人であり、その後援者ということではないだろうか。明治政府は日本国という中央集権国家の権力形成に、天皇の存在を利用した。外国の権力構造に学んで大日本帝国憲法で、天皇の位置づけを規定した。「第一章 天皇 第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」憲法の第一に、日本は天皇が統治するとしていたのだ。このことが江戸時代までの日本人の天皇観を、天皇のあり方を根底から歪めることになる。万物に神性が宿ると感ずるような、日本人の精神の成り立ちに連なっていた天皇。帝国主義の為に、天皇を崇拝する精神を強制し、まるで北朝鮮のキム3代の無理やりの独裁制度に近いような、印象を持つにいたる。天皇を日本的な緩やかな位置づけで、上手く尊重した江戸幕府の知恵に学ぶべきだ。
江戸時代は別段特別の法的位置づけはなく、政治的な活動を制限する規定を作ったくらいである。と言っても、天皇は建前の上で、国家権力を幕府に授ける位置は保つ。上位に位置づけられなが、権力とは離れ、日本国全体の文化の統括者として、文を持って日本人の精神を治めていた。天皇と皇室は、学問、和歌、芸術、農業、宗教。こうした文化一般にその存在証明を求めることになる。何故そういう方向に進んだのかを考えるべきだ。意識的に、そして無意識的にしても独特の精神的存在にする、日本的な知恵を働かせていた。天皇が武力的権力から、遠い意存在であったからである。尊敬しろとか、象徴であるとか、憲法で押し付けるのでなく。天皇の素晴らしい文化性の前で、自然に敬意を持たれる存在が形成される。また、日本人独特の宗教的伝統の中で、ご先祖を敬う、ご先祖に見守られて生きる自分という感じ方がある。このご先祖に連なるものの象徴が、母なる大地、父なる空的なものとして、天皇の存在の中に感じていたのではないだろうか。
古代においては、天皇の存在は生活全体の基本となる、水土を司る存在である。古代の呪術的な存在であり、先端技術集団である、水の管理者としての存在。その全体性をイザヤ・べンダサンが日本教と名付けた、生活全般を覆い尽くしている、根源的な思想の中心的存在であったと考えている。日本人が生活領域を広げるに伴い、無理やり気候風土が不適地であった東北地方にまで、稲作を広げた根拠は、日本人であるという事には、どうしても稲作が、神田だけでも作らざる得なかったからである。その食糧生産技術者としての大本に、天皇の存在を感じていた。自然に大きく作用される、稲作では、天に祈る気持ちになるのは、今も昔も変わらないだろう。その思いのどこかに天皇が存在し繋がっていた。それは、天皇が制定した暦というものにみられる。暦は稲作に置いて、とても重要なものだ。広く江戸時代日本中に普及する伊勢暦のなかに、その影響がうかがえる。
やがて、技術と宗教が独立したものとなる。江戸時代に到り、日本とは何かを、探求して行く中で、縄文以来の日本という文化を探りあて、天皇を八百万の神の統括的存在と考えるようになる。そのことはあくまで権力者としてではなく、思想的精神的支柱ということである。江戸幕府は建前として、天皇の臣下として、国を統治している。天皇を尊重はする。しかし、天皇は権力というものに対しては距離を置く。日本という全体性を司る文化的存在という、とても良い位置に置かれていた。当然農業を行う存在でもある。庭園と水田を融合する修学院離宮は後水尾上皇が京都の東北部に建造する。自給循環型の理想郷モデルである。ここに江戸時代の天皇を考える上での、重要な材料がある。日本とは何かを考える上で、外せないものである。この江戸時代に日本的に作り上げられた天皇を、欧米的な権力に結びつけたことが、その後の右翼思想に影響を与え、間違った皇国思想を育てることになる。天皇を大切に考える者こそ、天皇が京都なり、奈良に戻り、日本文化を代表するものとして、暮らしてもらう事を望むべきではないだろうか。