対岸の家事!
あまりにピッタリな言葉なので、使わしてもらった。太田朋子さんというアルゼンチンにお住まいの方の言葉である。アルゼンチンでは家事をアウトソーシングという話が出ていた。こちら側まで火事が延焼しないことを祈る。アウトソーシングと言う意味が分からなかったのだが、どうも野外の裁縫ではなく、外注と言うことらしい。だから、アルゼンチンでは家事を人に頼むことが普通と言うような話だった。何とも哀れな話だと思っていたら、いい話ということらしい。火事喧嘩ほど面白いことは無いのに、これは江戸の華の方だ。一体家事を他人に頼んで、家事以上に大切なことがあるのだろうか。と言うような皮肉が言いたくなったが、実は題名以外は置いておく。火事だけでなく家事だって相当に面白い。自給生活は、家事を面白いもににする。ロハス的な面白さを言っている訳ではない。自給の家事は自分の根っ子までつながっている。家事を人に依存するということははたして。
家事を外注してしまえば、自分と言うものを見失う第一歩である。暮らしと言うものが、外注されてゆく。暮しを商売の対象にしてしまう社会は刻々対岸から延焼してきている。それは自分と言う人間の確認が出来なくなるということ。一粒の種籾を蒔き、その苗を育てて実る「お米」を食べる。そして発酵させて「糀」として利用する。そのことから自分と言う物質としての人間が出来上がっている。食べ物を通してこの根本を体感する。これなくして生きている醍醐味はあるのかと思う。掃除だって洗濯だって雑用ではない。雑用でないようにやるかやらないかだ。私の場合、絵を描くと言うことにすべてがつながる。生ごみを段ボールコンポストで堆肥にする。これは絵を描いているそのものである。絵を描くと言うことがそう言うことなのだ。格好をつけで言っている訳ではない。絵を描くなどそもそも何の根拠もない行為だ。毎日絵を描いていてダメになって行く人の方が大半である。
絵を描いているだけで、人間の生きることに到れる人は、特殊な天才だけだろう。ダビンチだろうか、ゴッホだろうが、生きることに精一杯である。すごく真剣に生きて、人間の底に横たわる本質に触れたに違いない。絵を描くと言うことで生きる実感に到れるのは凡人には無理。ただ絵を描くロボットのようであれば、その絵はより表面的なものになって行く。一日一日を、生身で生きなければだめだとおもう。どうにもならない困ったことが、絵を深める。不謹慎かもしれないが、原発の事故を契機に絵が深まらないような描き方をしている人間は、絵画に対して芸術として向かい合っていたのではない。などと偉そうなことを言えば、自分の絵に跳ね返るのだが、それは今開催している。「水彩人同人展」を見ていただいて判断してもらいたい。
家事の話だった。洗濯を考えて見る。洗剤を出来るだけ使わない。塩を使うとか、水のクラスターを小さくするとかで、汚れは落ちる。異常な漂白されたような白にはならないが、肉体は食べたもので出来上がっている。人任せにするより自分で作る方が良いに決まっている。特に発酵食品である。米麹はご飯を食べている日本人の身体に、とてもあっている。と言うようなことは自分で作れば気づくことである。家事はその気でやってみれば楽しいものだ。負担だけだと考えてはもったいない。そう言うことが生きることそのもので、それ以上のものを探しても、大したことではないようだ。