諏訪の原公園
暮らしている舟原のお隣の集落が諏訪の原である。随分長い工事で、大きな県立の公園が作られている。出来上がるにつれて、違和感のある都市公園が姿を現してきている。随分の費用をかけた破壊行為に見えるが、私の見方感じ方がおかしいのだろうか。一体誰の為の公園なのだろう。どれほど税金が投下され、今後どれほどの管理費用がかかるのだろう。毎日通る場所なので、見る都度がっかりのしっぱなしである。あの地域の畑や雑木林や、神社のたたずまいは久野に残された数少ない、里地里山環境だった。最近はもうろくしたのか、守旧派のような見方ばかりだ。あの公園の無駄使いを、このさい逆手にとって有効利用できないかと考えてみた。防災公園である。避難所建設予定地である。大きな自然災害が繰り返されている。海岸地帯を考えれば、津波対策は相当に手薄なようだ。大きなビルがいくつかあるから、ああいう場所が緊急避難拠点になっているのだろう。しかし、その後の事を考えた時、問題になるのは避難所である。
諏訪の原公園を避難所準備地にする。非常用電力の確保。ソーラー発電所の設置も良い。衛星回線を利用した、通信手段の確保。情報センターの確立が出来るようにして置く。150メートル以上の深井戸を掘リ水を確保する。仮設住宅建設がいつでも緊急かつ合理的に出来るように地盤の整備。プレハブの保管なども必要だろう。食糧の備蓄倉庫もいる。そして炊事場の設置。薪等でも炊事できるような施設を作る。風呂の準備。災害時必要になるのが風呂。個人的希望としてはお隣のフラワーガーデンを温泉風呂に変える。フラワーガーデンや、焼却炉もうまく連動する施設にして置くことも、重要である。さらに四方への交通路の確保もする必要がある。一定の物資輸送が可能な道路の整備。広域農道との連結を確保しておく。その他周辺の農地所有者は、緊急時の応援の体制もお願いする。かなり広い面積が、緊急時避難センターとして使えるのではないか。
小田原市役所だけを、指令本部として予定しておくことはリスクがある。緊急時には、焼却炉の管理棟やフラワーセンターの事務室などを、一定期間指令本部にできる体制を取っておく。小田原市民は、いざという時に備えて諏訪野原公園まで歩いてみる。1時間くらい歩けば、小田原中心部からの避難も大体に可能ではないか。小田原市の小学校の子供たちは必ず遠足の際来ておく。ここで、一日炊飯遠足を行う。何も無い場所で、どのように炊事場を作り、テントを張り寝る場所を確保するかを体験する。できればそばの畑でとった食材を使った調理を行う。私は小学校5年生の時にそうしたと飯盒炊飯の徒歩遠足を体験した。大抵のバス遠足を忘れてしまったが、その遠足だけは今でも鮮明に思い出せる。子供が生きる力をつける良い、教室になるはずである。
本来であれば、公園を作る前に市民的な組織を作る必要があった。地域住民にとってどのような公園が必要か。あるいは不要なのか。ヒルトン問題でもそうなのだが、市民とともに考える姿勢である。結論が先に出来ているのでは、市民参加の道がない。それは、生ごみの堆肥化のようにこれから進めようと言う、市の施策に置いても市民参加の手法を取り入れる必要がある。市民がどう考えるかを、自ら繰り返し問うと言うことである。口先での市民協働は、市がやるべき仕事を市民ボランティア肩代わりさせるいい訳のように聞こえる。今からでも諏訪野原公園の使用目的を変えることは可能なはずだ。少なくとも原点に立ち戻り、今小田原に何が必要かを考えなければならない。小田原市民にとって防災公園が必要だということならば、もう一度考え直す冷静さが必要である。