批判力と創造力

   

興味を持つことが批判的な課題である人間と、創り出すことにしか興味がない人間がいる。このブログを読み返すと自分が批判的な人間であることが分かる。気おつけなければならないところだ。長妻厚生労働大臣とか、管総理大臣もそうなのだと思う。野党に居て、批判的なことを言っていたときは、光を放っていたし、舌峰鋭く迫る姿はなかなかのものだった。仕分け議員の評価が上がったのも行政批判だからである。ところが、責任者になって事を進めて行く能力はまた別のようだ。何か凡庸で、管氏は少し哀れである。最近の歴代の総理大臣が、無能に見えてしまうのは、総理大臣の力量の問題以上に、日本という国の経済後退というか、国力に応じたところへの降下というような、どうにもならないことに向かっているからである。その状況判断が出来ず、経済の回復という旗印を掲げてしまうので墓穴を掘る。たしかに、物を作り出すということは、ケチをつけるよりはるかに難しい。モンスターペアレンツに教師はできないだろう。

クレーマーの言いたい放題をまともに相手にしてはならない。私なども市役所では要注意人物の一人であるらしい。あいつが来たら、気おつけろというリストというか、そういうものがあるなら、かなり上位にランクされているだろう。愉快なことではないし、誤解だと言いたいのだが、苦情で役所が時間つぶしをしているのも困る。市民の出す高い給与なのだから、苦情は10分以内が基本らしい。できる限り苦情では市役所には近付かないようにしている。効果のないことで時間をつぶしてはならない。創造力のことだった。創り出す力量これが政治家の本来の力でなければならない。所が議会というところの仕事は、チェック機能ということらしい。チェックと言うと、校正作業のように字句の誤りを指摘するような役割と、考えている節がある。むしろ野党議員であろうとも、期待したいのは条例を提案するような能力である。創り出す政策で国民が選択できるようでなければならない。

ところが、政権交代というのは、なるほどで、自民党の政治家は批判力が弱い。国の責任者である意識は、有難い面もあるが、民主党政権の駄目さをあぶりだす能力に乏しい。というようなことが、このテレビ政治時代では顕著に現われてしまう。ケチのつけ方のうまい人間が有能に見える。現状というのは、いずれにしても変えていかなければならないものである。どれほどの保守主義者であれ、今のままがいいという訳ではない。変える力。次の時代を見据えて、今を変える力。ここが問われている。管氏にはもしかしたら、やりたいことがなかったんではないか。今の時代はおかしいという、学生運動から、市民運動へ。さらに長い野党としての孤立した議員生活。その中で、目立って選挙を勝ち抜くために、足をすくう論法は磨いた。そしてついに総理大臣になってみたら、官僚の説明を聞いて、納得してしまい。単なるお飾りになったようだ。普天間基地に対する情けない態度。

日本という沈みそうな国を無事にとはいかないまでも、それなりに航海させなければならない。大変なことである。眠れない毎日であろう。藁をもつかむ思いで官僚に頼りたくなるだろう。消費税発言である。当然の発言である。これが責められている。報道や国民の反応が理解しがたい。またぞろ、消費税を止めて、無駄を省いて、税源をねん出する。小沢氏の発言である。これは批判者の、共産党なども繰り返し何十年と主張している。当然のことである。国民が期待しているのはその先の具体性である。仕分けの是非であり、仕分けの結果の活かし方である。私が関与した、有機農業モデルタウンでは仕分けされて補助が廃止され、産地育成なんとかというようなものに、もぐずりこんだが、最悪の状況である。有機農業をどう考えるかが、全く問われていない。管・小沢両氏の政権構想が出た。管氏のは観念論。小沢氏は具体論。勝負はあった。

昨日の自給作業:草刈り2時間 累計時間:2時間

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