死刑立会をした千葉法相
千葉法務大臣が死刑執行に署名し、立会いを行った。この行動には、びっくりしたし感銘を受けた。人間として立派なことだと思う。死刑廃止論を信条とされている方が、死刑執行をしなければならない法的立場に立ち、苦悩したことだろう、一人の執行も行わなかった大臣もいる。しかし、死刑確定から、6か月以内に刑を執行する決まりになっている。本来事務的に行うべきことだ。何年も刑が執行されないこと自体が、法治国家として不自然なことである。誰でも刑の執行などしたくはない。法務大臣としては懸案事項で、退任前にまとめて行うということを聴いたことがある。誰しもやりたくはないが、責任は果たさなくてはならない。9月で千葉法相は退任の可能性が高い。この中での苦渋の決断であったろう。報道への刑場の公開も行う。誰だって目をそ向けたいことだ。君子は厨房にいらずの伝統からすれば、大きな転換になる。死刑の是非を論議に乗せたいという、思いも背景にあるだろう。
死刑は廃止すべきでないと考えている。人権先進国では、死刑は廃止している。という論議があるが、人権と死刑は少し意味が違う。これを同じ土俵で論議する国連の考え方に問題がある。ヨーロッパを中心とした、キリスト教国の考え方が、死刑廃止という方向にあるというのは、理解できる。キリスト教のことには詳しくないが、許す宗教のようだからだ。許す精神が深ければ、自分の子供を殺されたとしても、許す方が神の意志に沿っている、ということだろう。確かにそうした宗教的確信があるなら、許す方が望ましい。しかし、許さない宗教もある。こうしたことを人権の名のものとに、よその国に干渉することには問題がある。許すことと、責任をとることを別のことと考える事が、一般の社会では普通の判断である。盗みを行えば、謝罪し、罪を償い、返済する義務がある。死刑についてだけ別に考える必要はない。
死刑については、殺された側の問題から考えるべきだ。これほど非道なことはない。あってはならないという意味では、死刑のレベルではない。死刑になる人には原因がある。しかし、殺人をされた側には、まったく原因の無い場合もある。オオム真理教のような場合は確信犯である。宗教上正しい行為として、無差別殺人を実行している。一方自殺が出来ないから、無差別殺人を行うという、社会が崩壊しかねない犯罪もある。自殺が増大する中で、考えておかなければならない事態だ。死刑による抑止効果の消滅。この点でも、問題は複雑化している。死刑廃止論には、刑罰そのものの廃止に近い考えがある。終身刑の廃止も同時に主張される。罪と責任ということから、許されない考え方だ。殺人を行ったら、死刑になる。基本は単純に考えた方がいい。何でも欧米に従うことが、先進国であり、人権が守られると考える事は間違い。
冤罪の問題と、裁判員裁判の問題がある。冤罪の可能性のある死刑判決を下す。国民の義務としてこうした行為を取らされることは、耐え難い。疑わしきは無罪であるなら、疑わしくない判決などあるのだろうか。日常においては、真実と疑わしいの境目の毎日である。真実とか、確信とかいうものには程遠い暮らしをしている。記憶だって常に曖昧だ。その中で、他人の権利にかかわる部分に踏み込むなど、できるはずもない。人を裁くなどということを、素人に押し付けてくること自体が、国民の人権を侵害している。その道のプロだって間違いをしていることだ。やりたくないという人が居て自然。こういうことを率先してやる、いわばまじめな責任感の強い人がいる。そういうタイプの人が裁判員に成りがち。自分なら受けたい裁判どうかということだろう。殺人をしたら、死刑になるしかない。と思っている。