3Kのしごと

   

3Kの仕事とは「構想・行動・交代」これが私が考える人と共同して行う仕事のやり方である。きつい、汚い、危険の3Kではない。仕事をやるときは、構想が何より重要。そして始めたら、自らがどこまで行動できるか。口だけ出すようなのでは意味がない。そして、いつ交代するかを常に考え、出来る限り早く交代する。構想に長くかかる。10年くらいは考えている。いまやっている事は、考えて考えた末のことだ。構想で終わりになることも多い。大抵のことはそうだった。やってみたいことは山ほど出てくる。今取り組んでいるのは、生ごみの問題であるが、20年以上考え抜いてきたことである。もちろん大した事を考えてきたわけではないが、どう解決すればいいのか。この困難さに、頭を悩ましてきた。そして、時至ってやれるだけの行動はしている。一年は動いた。残り一年である。どうなろうとそこで降りる。2年で道筋がつかないようなことは、構想が悪いのだ。

行動、自分自身がやれるだけ動くということ。里地里山については、個人的には構想段階で止まっている。全く動く段階に至っていない。このまま構想で終わるのかもしれない。それはそれでいいと思っている。力の出せないことにまで無駄に行動する気持ちはない。行動するということはやりつくすということになる。この力を出し切る、やりきったというところまでやれないことは、やらないほうがいい。やりきったという気持ちが持てれば成功失敗は関係がない。だから行動できるということ、やらせてもらえるということは、有難いことだ。感謝して精一杯やる。これが難しい。どこまでが精一杯なのか。結局ずいぶん手前で限界線を引いてしまうものだ。やり残したことはないか。やりきったか。打算とか人眼とか、やりきる行動の自分で作る障害はないか。いずれ他人とのかかわりだから、構想段階で、自分の力が出せないなら、やらないほうがいい。

そして交代。大抵のことはきりるということはない。終わりがないのが当たり前だ。自ら期限を引くこと。そして終わりにすること。やりきれば、後悔はない。成果から仕事を考えれば、力がない人間であればある程、終わりは遠のく。構想段階から交代を計画に入れる。交代できない構想では、仕事の構想とは呼べない。仕事の側から見れば、交代できないような流れになれば、すでに失敗である。どの道生きて死ぬだけである。人間が生きるということが大前提である。その一断面としての、仕事である。自分という人間存在を仕事の成否で評価してはならない。仕事をしているから自分というものがある訳ではない。自分の存在の確認は、すべてをぬぐい去ったところにある。しんでしまえば同じことである。仕事をしてくれてありがたいとか、迷惑であったとか、そういうことは受け手の問題で、そこから自分の価値評価を見たところで、流動的な確かなものではない。

さて、今何をやりつくしているか。やりきっているか。まだ不十分があるのではないか。発想を詰めれば、このことである。いまやっているのは、生ごみのたい肥化である。段ボールコンポストである。ごみのことは、長年構想してきた。そのことがあって、養鶏自体も変わった。地域で循環する形を模索してきた。農の会の流れも同じである。地場・旬・自給、地産地消という考えもそこにつながっている。自分の作った農産物が、生ごみになって焼却されるのでは、おかしい。生ごみはたい肥となって、次の作物を育てなければならない。この循環の流れを滞らせないことは、人間の暮らしの永続性の問題である。今小田原での取り組みを、できる限り実行したい。

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