市民が主役
4 市民が主役の小田原【現況と課題】
◆ 小田原市では、多くの事業や政策づくりに多様な市民参加の手法を取り入れてきましたが、自治基本条例(※現在策定作業を進めています。)によってまちづくりにおける市民と行政の役割やルールが明確化されました。今後も、市政運営における市民参画を進めるとともに、さまざまな主体が協働してまちづくりを進めるための取組が求められています。
市民が主役はいいのだけれど、そこへの道筋を示す事が、行政の役割である。この現状把握は、甘すぎる、おごりがある。市民の役割は繰り返し行政が言葉として述べるが、行政の役割は少しも精査された経緯がない。市民と行政の役割分担を明確にすることが先決である。どの部署でもこの点まともな対応ができていない。自治基本条例の策定過程において、行政からの公開されたヒヤリングが行われていない。行政はできないことを明確化する必要がある。部署により、人により、対応がまったく異なる事が普通となっている。市民にしてみると、お願いするとやってくれる課、やってくれる部署、やってくれる人が、いい行政となる。行政は行政がやらなくてはできない業務に絞るべきだ。地域や業種によって大きく対応が違う、という実態がある。
素案のいたるところに繰り返し書かれている、「市民の役割」を具体的に示す必要がある。「市民が主役の小田原」「市民による市民のための」「市民がまちづくりの担い手として参画し、課題を自ら解決していく」「市民と行政との信頼関係に基づいた市民協働型のまちづくり」「自分たちのまちは自分たちでつくる」全ての言葉が抽象であり、市民が具体的に、どんな段階を経て、具体的に何を行うべきかが明確でない。美辞麗句を繰り返すばかりで、市民の役割が何なのかは、わかったようでわからない。ここがとても消化不良で、むしろ不信感に繋がり始めている。これは市民の役割を行政自身が認識できていない結果である。、市民の役割と、動き出してみると肩透かしと言う事が続いて居る。里地里山の再生でも、有機農業協議会でも、生ごみプロジェクトでも、やることなすこと、こうした行き違いを体験している。
行政の役割。このブログのでも何度も書いていることだが、市民にやれない部分だけが行政の役割である。どちらが行うべきかの中間的業務においては、具体的に書けば補助金等申請業務。事業における法的手続き処理。公的会計事務処理。公平な連絡業務。守秘義務が存在する業務。これらの業務は、行政が行った方が効率的であるし、市民相互の猜疑心が生れにくい。しかし、そのほかの事は、とくに行動、実行は市民が行うことである。市民自身が行動や実行をできないのなら、それはやれないことと考えるべきだ。小田原市行政は「市民が行える事は、行政はやらない。」この宣言をすることが第一である。次に「行政がやるべきことは、行政がやりきる。」これも続けて宣言する。
財政が厳しくなる。そのなか福祉的支出が増大してゆく。お金が無いから何も取り組めない。こう言う事ではまったくない。行政職員は専門知識を駆使して、頭脳的業務を行うことに専念する。単純労働てき業務は、外注するか、市民自身が行う。行政職員はその給与額に相応しい、専門業務に専念する。市民が主役とは、決して公僕というような、行政が市民に仕えると言う事ではない。市民の中にある様々な問題に関して、豊富な専門的知識と、たゆまぬ研究をもって、解決の方向を提案する事が役割である。現在行われている、市民の中から知恵を引き出す、検討委員会方式、あるいはTRYホォーラム方式は、行政自身にその解決の力量が無い場合に限定すべきだ。むしろ市民が既に行っている事を、掘り起こし、繋ぎ合わせてゆく事を重視すべきだ。今行われているとする市民参加の形は、具体的結果を出さないと、不満の増幅になる。