トヨタ公聴会
甘く見たら痛い目に遭う。アメリカの公聴会は日本の地検とはレベルが違う。又繰り返される、日本パッシングだと考えていたら、大事になる。今起きている事は、日本経済の、正念場である。責任はトヨタにあると考えた上で、どう対応するかを官民挙げて、考える時である。。少なくとも、アメリカ通省の対応の厳しさから、相当の所までの把握した上での事だ。ラフード運輸長官は「安全性の問題についてトヨタは鈍感だった」と述べている。これは自動車会社として、致命的な部分だ。これを、アメリカの僻みから来る、日本叩きだ。落ち目のオバマ政権の選挙対策だ。などと考えるのは、簡単で気が晴れることだが、そんな表層的な問題ではない。文明の問題だとまで考える必要がある。
自動車という物は、アメリカ文化の象徴的なもののような気がする。日本の若い人は、車に興味を失ってきているらしいが。アメリカはまだ違うようだ。今世界で起きている、車という物の変化は、アメリカ人の心の深い所で傷が生じたようなことではないだろうか。技術革新が新しい地平を開くと言う考え方と、アメリカンドリームは切り離せない所を感じる。月に最初に降り立つアメリカ。一番強い国アメリカ。アメリカを凌駕するのはやむえないとしても、フェアーでなければならない。いやフェアーなはずが無いという見方。その観点で機械という物を見て行けば、必ず問題はある。どのような機械であっても不完全なものだろう。不完全であるものを、完全でなければいけないという、前提で議論が進む。トヨタは謝罪を繰り返している。これでいいのだろうか。訴訟社会で、責任を認めると言う事は、いつその欠陥に気付いたのか。欠陥に気付いていたのに、リコールを届け出なかったのは、何故か。これは犯罪ではないか。
日本政府はトヨタの企業的問題としているかのように見えるが、そんな事態ではない。この機会に日本人が変わってきていることに気付くべきだ。クレーンが良く倒れる。現場の技術力の低下は深刻になっている。団塊世代の定年期が来ると、技術者の一斉退社で深刻な状態がくると言われていた。そうしたことが社会全体におき始めているのではないか。ボルトの締め忘れで電車が止まるような、うっかりミスの頻発。緻密な配慮に支えられてきた、日本社会が劣化を始めている感じ。マニュアル世代と言われた人達が、社会の中核と成っている。日本人が普通になったと言う風に考えるほうが良い。冬季オリンピックでは韓国選手の強さが目立つ。韓国の社会状況の反映でもあると考えられる。特別な国家状況にある国。かつての日本もそうであった。日本社会は転換期を迎えている。
アメリカの魅力は、建前だったのかもしれないが、民主主義、能力主義、正義が存在する事だ。戦後日本はそれをならって社会改革を行ってきた気がする。アメリカが指摘してくれたことを、幸いと考えて見る必要もある。トヨタの問題を機会に、新しい日本社会の形を模索するような、方向に進まなければならないのだろう。社内教育の問題。臨時雇用で支えられている現場。海外生産。海外部品調達。巨大企業化。どの事を考えても、とても危うい状況にある。もう一度日本がどこを目指すのかを見直すべきだ。アメリカのテレビに「大草原の小さな家」があった。とても好きな番組だった。ああした良質な感性が作り出した、アメリカの良心の姿とどう結びつくのか。