原子爆弾投下
広島に原爆が投下された記念日8月6日、長崎に投下された記念日8月9日。二度と過ちを繰り返さないと誓う日。原爆の被害の深刻さは、次の戦争は人類が消滅する事を深く記憶した。子供の頃、大人たちは実感を込めて語っていた。もう戦争を二度としてはならない。多くの人を殺し、殺されたからという以上に、今度戦争が起これば、人類が消滅する。これが実感としてあった。第5福竜丸が被爆した時、それは生々しい現実として、日本全体をまた覆った。キューバ危機の際は、人類最後の日が来るのではないかと、子ども心に緊張を抱いた。その後も、よりリスクを高めながら、核武装する国が広がっている。アルカイダはもし原爆を手に入れたら、躊躇なく使用するとしている。北朝鮮は核実験を武器に、綱渡り外交を展開している。最近のニュースではミャンマーの軍事政権が原爆の開発をしているらしいと、伝えられた。こうした事実を背景にしながら、元幕僚長が公然と日本の核武装を主張して、一部の日本人の熱烈な支持を受けている。
原子爆弾をどの国家も持つことになれば、人類はとおからず消滅する。テロリストグループに渡るかもしれない。このことは北朝鮮の保有が明確化した以上。日本は現実としてこのことを考える必要がある。北朝鮮が原爆を外交手段として、原爆圧力をもって、日本に対峙している。北朝鮮が、いつより冒険主義的になるかはわからない。独裁国家というのはそういうものだ。世襲国家も3代目となるらしい。民主的に選ばれる訳ではない。世界の常識からかけ離れた、狂気の人間が独裁者として登場するかもしれない。そのリスクはいつも考えて置かなければならない。その時は、破壊的な冒険主義となって、後先なく、バーミアンの石仏を破壊したような、理解しがたい行動をとらないとも限らない。窮鼠猫を噛む。というような事は日本だってかつて必死に行った。人間というのはそういうものだろう。
この深刻な現実に対し、核武装で対抗できるとは、核の傘で対抗できると考えるのは、安易な軍事志向にすぎない。どんな抑止力を持とうと、自暴自棄の冒険主義には意味がない。その上に、防御をすり抜ける攻撃の方が、簡単だ。武力を持っての平和は来ない。このことを肝に銘じる。世界中の人間が、心からの友人になる事が、ただ一つの平和への道である。もちろんそんな理想主義を言いたい訳ではない。原爆に対し、原爆で対応しようと言う事が、全く無意味な状態である認識。「抑止力とは武力攻撃をすると、仕返しが恐いからしない。」と言う事だろう。どうせ自分の政権が押しつぶされるなら、出来る限りの暴虐をしてやろうとなれば、もう破壊以外ない。暴虐を許さない軍事的方法はなくなっている。刀しかない状態なら、鉄砲があれば、軍事的抑止力になるだろう。既に、原爆が一般化してきている中での軍事的抑止力の思想は、無意味になっている。誰も原爆を持たない。ここに向う以外、原爆のリスクを取り除くことは出来ない。
日本の平和憲法にうたわれた精神は、まさにこのことをめざしているにちがいない。国際紛争に対し、軍事力によらない平和的解決。日本人はこの平和的努力に向って、最善の努力をしてきたか。努力もせずに、安易に軍事的解決という、幻想の道を歩もうとしていないか。平和的努力は確かに現実離れしている。しかし、ほとんど徒労に見える、日本の平和主義だけが、世界を滅亡から救う道であることは、できる出来ない以前に、明快な回答である。この努力を本気ですべきだ。世界はこの先、食糧不足に陥る。食糧生産のアンバランスが強まる。気候変動による、飢餓も増加する。日本の田んぼは世界の食糧生産の場として、平和への貢献の場として、大切にしなければならない。輸出主導の国家から、貧しくとも国内で始末の付く国に方角を変える。それ以外に平和への道はないと確信し、平和的不断の努力を続けてゆく。日本の平和国家としての目標が破れるとしたら、それはいよいよ人類が滅亡に歩みだす時だ。