水彩人展の今後
水彩人の会議が行われた。朝から一日掛けて行われた。夜も飲みながら話が続いた。10回の開催と言う、水彩人の初期目標が終わり、新たな出発である。10月4日から東京都美術館で11回展が予定されている。今回から小野月世さんが正式な代表となった。事務所は松田憲一さんとなった。これまでの水彩人の活動の総括から始めなければならない。水彩人の第一に目標とした所は水彩画の探求であった。そもそも、水彩画とはどんな素材なのか。何に向いていて、どう使うのが最善なのか。この掲げた目標には当然異論があった。素材はあくまで素材であって、そのときに応じてあれこれ使えば良い。目標にすること事態が、おかしい。こう言う意見は当初から根強く、今でも内部でさえ同じ意見が繰り返し言われている。一理あるからだろう。
しかし、このことを目標にしたことは宣言文にあるとおりである。水彩人宣言文を書いた人は、松波氏である。そして、みんなで微調整し、熱い思いを込めて合意したものである。水と言う最も素朴な材料に立ち返り、現代絵画の閉塞状況を打ち破ろうとした。その方法として、外へ対する活動でなく、内側に立ち戻ってみようとも、宣言した。この10年間考え付く、全ての方法を駆使して、この目標に挑戦したつもりである。その結論として、水彩画の本質とは何かに到った。10年間の自分なりの結論のつもりである。一方、絵画の現状と言えば、自壊作用を始めた。この認識は、10回展の記念画集(¥1500円)の冒頭の、美術評論家瀧氏の文章にも見られる。芸術としての一手段の絵画の終焉と言ってもいいのだろう。芸術と言う思想としての枠自体が、絶対的なものと考えられていたが、実は短命に終わった。100年の生命もなかった。
芸術と言う、言葉による枠付けを問題にしないとしても、表現手段として社会的意味はともかくとして、装飾としての絵画手法自体が陳腐化し始めている。現代絵画というような枠組みの方は、活動が存在するのかどうかと言うほどの状態になっている。東京都現代美術館での企画展が何か社会的な意味を持っているのだろうか。入場者はどの程度居るのだろうか。しかし、その一方に、私的芸術と言うような、新たな動きが見える。実に個人的であり、内的な世界。水彩画にもそうした潮流は見られる。たまたま出会うことがある。つぶやきのような、独り言のような、ひそやかなものであるが、何か、生命の本質に触れるような、光るものに出会う。しかし、こうした控え目な、ささやきのように存在するまだ名前のない「もの」は、人目に触れることもめったにない。もちろん公募展というような、張り合うような世界とは隔絶している。
今芽生え始めている。本質的でありながら、ごく当たり前すぎて、見過ごされている表現手段に着目をしたい。小品である。水彩画の最も力を発揮して言う世界。これが、水彩人展の11回からの目標ではないか。こう主張した。たぶん、と言うか、当然だったのか、理解された感じはしていない。有態に言われてしまえば、素人の手なぐさみの趣味のお絵かきと、何が違うのか。たぶん全く違わないのだが、描く人が違う。描く人に天賦の才があるのだろう。つぶやきだから、努力とか、勉強とは、距離がある。頑張ってどうなるようなものでもなく。だいたいの場合、美術学校などに行くような発想の人には、縁のない分野。生き方がそのままでてきているのだろう。過去の絵で言えば、モランディーが一例。しかし、それを超えるようなものに、日本では出会うことがある。そして、それはアブクの様なものだから、そのまま消えてゆく。