陶芸、野焼き

   


小宮農園に展示してあった、野焼きした陶芸の作品を引き取ってきた。兼藤さんが挑戦を続けてこられた。野焼きの形態は、ほぼ完成形となってきた。もう名前ぐらい付ける必要があるのではないか。と思いあれこれ考えてみる。「泥藁窯」「泥窯」「藁窯」「縄文窯」「田んぼ窯」田んぼがあってこそなので、田んぼの何かは入る方がいいかもしれない。この方法は極めて優れた方法なので、本家本元としての意思表示の必要がある。さらに、兼藤さんが普及員となり、世界に普及の必用があるのではないか。この方法が、優れているのは、単純にいいものが出来る所にある。何故いいものができるかと言えば、これは不思議なのだが、田んぼ窯のお陰としか言いようがない。もちろん兼藤さんのオーラのお陰もあるのだが、いいものがほぼ出来るのだ。それで早速私の作品を事例としてあげても、説得力には乏しいが、私としては良いものであるので、自慢させてもらうのも仕方がない。

次に上げたいよさは、燃料が極めて少量でいいことだ。ミカンの選定枝が一抱えあれば、それで燃料は充分と言う脅威的な、節約釜。この省エネ時代にこれはアピール力がある。稲藁のほうは、稲作5坪分ほどあればいいだろう。窯を作る泥は、田んぼの土でいいわけだが、米袋で4つか5つは必要だろう。今回2段に稲藁を接いだが、問題なく焼きあがった。底辺の円の直径が1.5メートル高さも1,5メートルの円錐形は可能だろう。この窯の中に入る作品はご飯茶碗ぐらいなら、100個はいける。温度は1050度まで上がっている。もう50度は行けそうな手ごたえだ。もちろん窯の位置でだいぶ温度はムラが出来るようだが。焚口を上手く変えてゆくと。大きい窯なら、結構安定する。外からブロアーで空気を送り込むが、これもタイミング次第で、やらない方法もありそうだ。肝心なことは取り出し方。熱いうちに取り出して、周辺に穴を掘り、鉋屑や籾殻で炭化するとさらに作品によってはおもしろくなる。

さらに素晴しいのは中の作品以上に、窯自体が美しいオブジェである事。そしてそれは炎を吹き出し、一回生のはかない生き物を思わせる釜として、命を終える。このはかない美しさがパフォーマンスの魅力を高める所である。参加者だけが見届ける事ができる。炎のイベントと言える。窯には装飾を加え、焼きあがるまで、大切に補修を続ける。そして役目を全うし壊される。熱いまま取り出す訳だから、釉薬も千度くらいで溶融するものなら使える。今までのところ、釉薬を使った事はないので、須恵器と言う感じの質感である。それが、窯の性格から、思わぬ焼色の変化が起きて、おもしろい。しかし、これからの課題は1050度で溶けるこの窯にふさわしい釉薬の発見だろう。田んぼ由来の釉薬かな。もうひとつの課題が、作品の干しの問題。事前に作り、持ち寄る形、これが兼藤さんの大きな負担になっている。成型してすぐ焼くという訳にはどうしても行かないとするなら、何らかの方法で移動を兼藤さん任せにはしない。各自が乾かして持ち寄るとか。

それにしても陶芸と絵を描くのとは全く違う。陶芸をやると集中して、2時間3時間すぐたつ。絵をかくのはせいぜい30分だ。それ以上続けて描くのは困難だ。だからその絵を描ける30分を上手くつないで行く事になる。これ以上やらないという気持ちにいたる。こんな調子で30分30分と書きつなぐ。これはどんなに大きな作品でも大した変わりはない。陶芸を始めるとひと続きが長いので驚いた。絵を描いていて、集中力がなくなったとは思ったことはないが、せいぜい40分以上続けても意味がないと、感じている。陶芸でも私は、かなり計画的にやる。もちろん下図は必ずかく。頭の中に完成品がないと、ダメのようだ。人の顔をぶっつけでやってみたが、やはりダメだった。だから作る陶芸作品をずーと考えている。実はいまは内側の作品を作って見たいと思っている。見えない内側がおもしろい作品。

 - Peace Cafe