水彩人写生会、太東
房総半島の太東に、絵を描きに行った。2泊3日。水彩人では、毎年研究会を開催する事になっている。今回は参加者が、28名。いつもより10名ほど少なかった。それだけ、濃くなった感じがした。水彩人から、6名が参加。初めての参加者も何名かいた。こういう研究の仕方を、何故続けて来たかと言えば、自分にとって、唯一の勉強の場だからだ。一応担当と言う事で、もうこういう写生会や講習会の世話役というのを、30年はやってきたのだろう。東京にいた頃からだから、長い。水彩連盟にかかわって、すぐからそんな役回りに成った。水彩連盟では私が担当から外れてから、いつの間にか写生会そのものがなくなってしまった。大体に、絵を描く人で、写生をやると言う人が珍しい。ゴッホやセザンヌのように、風景と向かい合いながら、絵を描くと言うような事をする人は少数派なのだ。折角印象派の人達が、切り開いた探求法も案外短い命だった。
それは伝統的な日本画の方法でも、同じことで本画を現場でやる人は特殊な人だ。中国では写生をしていると、見ている前側にも人だかりが出来る。写生で絵を描くと言う事を理解しない人が一般的だ。絵の勉強は臨写法が何処でも普通なのだろう。学校教育で、写生が行われたことが、山本鼎氏などの教育運動から出来たわけだが、絵を描くと言う事だけで考えたら、絵を写しながら勉強する方が、普通であろうし、効果的であるのは当然だ。経済効率を優先するのが、この時代だから、自己探求などという、効率の悪い方法より、他人の絵から勉強するのが、当然の流れになる。これが行き過ぎると、和田氏のように、さらに効率を上げようと、ほぼ盗作と言う事にいたる。しかし、日本の工業製品がよく言われる。根本的な技術は海外に依存し、工夫の方で出し抜く。正に絵もこのやり方と言う事になっている。だから、写生をして自然から自己探求など、古臭い精神主義と言う事になっている。
自然に向かい合い、そこから自分の絵を探ろうと言う、在り方。これはある意味修行のようなものだ。座禅の世界と遠くない。だから、絵を描いているのか、自分を探っているのか。渾然一体としている。写生に行きましょうと言う、気楽な楽しみだと思ったら、とんでもない苦行の世界と紙一重。だからこそ、1人でやるのは良くない。「座禅は1人でやるのは良くない。」こう師山本素峰先生が言われた。とんでもない所に行っていても、気がつかない者が居る。こう言われていた。私の事をそう思われていたのかもしれない。ゴッホや、セザンヌはそうじゃないだろうか。絵画は病的な世界であるが故に人を打つと言う場合が、案外に多い。時代の病気に先行していると言うような、評論家的な意見もあるが、人間は多かれ少なかれ、偏ったものを内在しているから、ここに響くのだろう。
孤立せず、ともに探求すると言う事を、忘れてはならない。今回も多くのものを学ばせてもらった。すばらしい絵を見せてもらえた。私も描けないような絵を描かせてもらった。28名がそれぞれに素晴しい。苦闘していて、一歩も前に出れない人も居る。一日目と2日目で、全く別人のように何かを発見した人もいた。何故そうした事が起こるかといえば、ともに学ぶからだ、と思う。春日部洋先生と描きに行くといい絵ができた。先生から良い絵を描かせる電波が出てくるなどと、冗談を言っていたが、不思議な体験を良くした。春日部先生は、写生に行くと、描く場所を探してばかりいる。だから、大抵は前日から行って場所探しをしている。それで、笹村君きみが描く場所を探したよ。などと場所を指定してくれる。そんな親切な先生が居るだろうか。安心して、ただ描いた。そのことから学んだ。一人でも参加者が居れば、写生世話係りぐらいは続けてゆくつもりだ。