養蜂家 宮川忠治さん

   

宮川さん(宮川忠治氏86歳養蜂家久野在住)は現在も現役で、小田原久野で養蜂業を営んでいる。久野の旧家で、分かっているだけの名前で、9代前までだそうだ。小田原のハチミツはミカンの花から集める。ほんのりミカンの香りがする。「それは採取が早いんだ、濃縮が進めば匂いはしない。」白い結晶になるような、濃いハチミツは匂いはない、そうだ。養鶏技術は極めて難しい、「何年ぐらいして、養蜂ができると思われました。」こう伺うと「2,3年だな。」なるほど。しかし、よく伺うと、ここ2,3年でやっと分かったと言うのだ。とすると、84歳になって分かったという深い深い驚くべき技術。その技術の姿の第一は自然。ミツバチの巣箱を斜面の石垣沿いに並べた事。斜面の下側に竹薮。そして巣箱の上には棚を作り、夏場ゴウヤやキュウリを栽培する。自然環境を整えた事で、巣の規模が以前の倍の3段から4段になった。巣が倍の大きさになると、蜜の量は4倍に成る。

宮川さんは戦争では水兵で、父島に赴任したそうだ。父島での戦闘は米潜水艦での、食料の遮断。弟島に渡り、さつまいも畑の開墾と苗作り。戦争に行って、農業技術の工夫に挑戦。涼しい川のほとりの半日陰での、苗作りの工夫と成功。やっと大量のサツマが栽培できたが、それを食べる間もなく敗戦。砲兵として、太陽を見続けた為か、失明の危機。それが奇跡的に治ると、今度は肝臓の結核による摘出。体をすっかり壊して居る時に、恩寵のように家の向かいの植木屋さんの庭木に、分封したミツバチがきた。これをりんご箱に捕まえて、飼っていた人にあげようと思って連絡すると、ハチを箱に取れるぐらいなら、飼う事も出来るはずと言う事になり、飼ってみることになる。しかし、そんな簡単なものじゃなく、死んでしまう。それでも、やって見たいと思っていると、大工のいとこが分封したハチの事で、苦情が出たので止めたいとの話。これ幸いということで、再度挑戦する。

それからは、本(「これからの養蜂」S26年アズミ書房発行、井上丹治著)を取り寄せ、徹底的に独学する。先ずは基礎を完全に頭に入れる。その上で自分の観察で、とことん工夫を重ねてゆく。よほどの根性が無ければ、出来る仕事ではない、と力説。ともかく病気が怖い。どんなに健康に育てても、あるとき、アメリカフソ病に感染してしまえば、全て焼却するしかない。抗生物質以外効果のある薬もない。ハチミツに混入するので、抗生物質は使用禁止されているそうだ。西洋ミツバチはフソ病に弱い、スズメ蜂にも弱い。だから日本では野生化することはない。日本ミツバチは蜜の収量は少ないが、スズメ蜂にも強いし、フソ病にも強い。なんかホッとする話だ。昆虫は農薬には極めて弱い。だから養蜂は自然環境のバロメーターになる。良いハチミツは、その環境の結晶だ。

ハチミツは輸入物が、大半を占める。著名な山田養蜂場だって、輸入業者と言ったほうがいいくらい輸入している。砂糖が混入してハチミツもある。小田原で本物のハチミツが手に入る事は、実にありがたいことだ。宮川さんのところでは、いつもあるという訳ではないが、1200グラム3000円がみかん蜜。100果蜜は2000円だ。その美味しさは他のハチ蜜とは、別物だ。体の弱かった宮川さんが、健康を取り戻し、今も現役で55の巣箱を管理出来るのは、ミツバチのお陰だ。砂糖等と違い、蜂蜜は古代より、薬として利用されてきた。自給には、どうしても必要な一品だ。

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