大相撲大阪春場所
大阪場所も13日目が終わり、白鵬が1敗、朝青龍が2敗で今日直接対決。白鵬は怪我さえなければ、とうに横綱になっていた力士。大鵬に並ぶような力士になるだろう。怪我を心の強さに生かして、さらに立派な横綱になってほしい。相撲好きなのに、テレビで相撲を見ると言うことは無い。週刊誌で、朝青龍の八百長疑惑、もともと八百長は相撲由来の言葉、「国技」相撲が八百長とは何事だ。などと力んでいるところがどうもわからない。武士道などと言うと、精神主義の極端な世界のように思いがちだが、宮本武蔵や、佐々木小次郎を武芸者と呼ぶ。武術の芸者である。一種の芸能活動のように感じていたのだ。プロレスでも、相撲でも、歌舞伎でも、興行の世界だ。日曜日は千秋楽となる。歌舞伎も、相撲も同じだ。今相撲は15日で、一場所となった。これも実に上手くできている。日曜が初日で、千秋楽が、日曜日。年六場所必ず、間には休日が入る。
子供の頃は栃若時代。子供は何処でも線を引いて相撲をしていた。2人の横綱は小さいけれど強い。横綱になるとき100キロなかったのだ。その後栃の海は93キロで横綱になった。今の大型化の中では、信じられないけれど、大きいから強いと言うものではない。そもそも相撲は強いからいいというものでも無い。江戸時代には一人相撲と言う芸があったそうだ。瀬戸内の大三島では、指定文化財として、この奉納相撲が残されている。一人相撲には二通りあったそうだ。一つは、架空の相手と相撲をとる。いかにも相手がいるかのごとく相撲をとり、見事に上手投げなど演じて、芸いとしていた。もう一つは、何と二人を一人で演じたのだそうだ。いかにも2人が居るように、と言うから、人形でも使うのかもしれない。これがいずれも、負けることが芸能になっている。
負ける美学と言うか、見事に投げられる事が美しいと言うのだ。朝青龍の初日、2日目の連敗をどう見る。負けて美しかったかどうか。いまだ木鶏たりえず。八百長騒動のなか、騒然としたかもしれない。やっぱりと言われたくない。栃錦は、若乃花に投げられて、美しかった。本来、神事である。野見宿禰と当麻蹴速が日本書記にあるそうだ。神様相手に一人相撲を取り、見事に負けなければ成らない。当然の事だ。これを江戸の庶民は芸能として、迎えたのだ。負けっぷりが良い。負けて悪びれず。見事に負けるとはどう言うことだろう。受け入れると言う事だろう。自然力と言う神を絶対的なものとし、その受け入れ方を味わう。江戸らしい芸能に育った。それを受け入れ楽しみ、一緒に悲しむ事ができる庶民力。
日本の芸能である相撲を、何故かスポーツとして見る浅はかさは何だろう。勝ちとか、負けとか、ルールとか。こんな物にこだわる人が必ず居る。例えば公募展では絵のサイズにルールがある。卑しい人であると断言するが、これを巻尺をもってきて、測る人が必ずいる。絵描きがそんな細かな事にこだわってどうするのかと思う。ところがこれを規則は規則だ。と頑張ってそうした人は譲らない。そんな世界に文化が育つわけが無い。戦中戦後と活躍した、大内山と言う2メートル以上長身の大関が居た。彼は本来横綱の器であったが、4人の横綱が居たので、残念ながら、大関どまりであった。3場所つづけて負け越し、大関から陥落した。その後、幕尻まで下がり、千秋楽を迎えて、7勝7敗、手に汗を握ってラジオにかじりついた。残念ながら、至極あっさりと寄り切られて。引退した。負けっぷりは見事だったに違いないと、ラジオを聴きながら胸が熱くなった。