水彩人研究会が終わる。
2日に渡った、研究会が終わった。新しい、芸術ジャンルの、創出に立ち会ったような、不思議な充実した気持ちでいる。絵画在り様が、時代と共に変遷し、これからの時代は描くという行為そのものが、問題になる時代が来る。この辺の事は以前書いた。様々な表現法が出来た。写真の登場で、記録性というものは、絵の役割から退いた。そのように、絵の役割はどんどん変化しながら、今は商品絵画時代が、やや終わろうとしている。
それとは反比例するように、絵を描くという行為そのものが、描く人間の存在に大きく影響するようになった。出来上がる絵の役割、から、絵を描くという行為の意味が、問われる時代が来ると考えている。ブログというものを今書いているのだが、まさに絵を描くと言う事も、丁度ブログを書くように、絵を描く時代が来ている。ブログを書く職業が無いように、絵を書く職業もなくなるだろう。残るのは「絵画」と呼ばれてきた物、とは程遠いものになる気がしている。
これから来るであろう、新しい絵画の意味合いを考えた時、「制作パフォーマンス」というものがジャンルとして登場するのではないだろうか。ちょっと分かりにくいが、今絵にまつわる事で面白いのは、絵を描いてゆく工程だ。一枚の絵が、出来上がってゆく過程では、消えてゆく様々な場面がある。これを、同時体験しながら、共に制作したような、感動を味わえる、いわばショーだ。
パフォーマンスというと、篠原有司男氏のような現代芸術分野の、奇妙奇天烈な前衛芸術が、思い起こされるが、そういったものでなく。ピカソの絵を描く、記録映画を見るような状態で、演劇的に、1人の作家が絵を描く過程を、つぶさに味わう体験だ。パフォーマンスと言う事は、行為をやり遂げるということ。作家が絵を描く行為が、パフォーマンスと言う事。絵を描くと言う事が、絵画の重要な要素に成ってくるに従って、この部分の重要度が増してくる。
黄色に塗られていた平面が、更に青く塗られる。すると、赤で置かれていた。点が、緑に変わる。こうした変化は出来上がった絵では、消えてしまう事だ。しかし、この工程の面白さは、絵を描くもの同士にはよく理解できる。絵を描くという言語がここでは成立し始めているのだ。音楽がそうだ。音楽を共通語として、理解するには、それなりの素養が必要となる。同じに、絵画するという、素養が成立してくると、絵画する行為そのものが、面白いショーとして成立する。
今回はショーをみて、それから各自が描いてみた。少なくとも、そこでは自分が変わるという、不思議な体験をした人が、続出した。絵を描くという行為が、その場を支配する、空気に大いに影響されている事がわかる。二人とも、水彩画ではあるが、鉛筆で下描をすることは無い。多分参加者の大半の人が、鉛筆の下描きをしていたと思う。それはいくら止めてみたらと言葉で伝えても、変わらない堅固なものなのに、今回は筆で描いてゆく。
初めての試みを作り出せたという喜びがある。同時に、制作者とのやり取りをする進行役の意味が重要になる事がわかった。今回は、水彩人の仲間が、取り囲むようにして、問いかけをして行った。今問いかけが、実は重要で、制作者をより高める場合もあるし、失速させてしまう場合も起こる。漫才の相方のように、適切なやり取りをしながら、制作してもらう事。出来れば、イヤホーンで、解説などがあれば、更に面白い物になるかもしれない。