小田原評定
「小田原評定・久野寄り合い」と言う言葉があるそうだ。久野というのは私の住んでいる地域の事だ。「長引いて容易に結論の出ない会議・相談」を言うと辞書に書いてある。こういう解釈が出てくるところに、現代が、話し合いというものに、方法論を持たないで形式主義になっているかが分かる。所詮話してもしょうがないから、民主的という形式を踏もうというのが、現代の話し合いのあり方だ。タウンミーティングの発言に、お金を払っていた事がわかった。驚いた事に、政府の見解では、それは悪い事ではないそうだ。
本来の、小田原評定は後北条家の月2回の重臣会議のこと。当時では独創的な制度で、五代にわたって家臣・国人の裏切りが皆無に近い後北条家の強さの裏付けと考えられている。しかし、その中でも有名なのは豊臣秀吉による小田原合戦の時の籠城か野戦か戦術を巡る論争である。中々、結論はでなかったが、籠城作戦を選んだ。
時間をかけて、とことん話すというのが、小田原の伝統だ。久野には、久野寄り合いという言葉があり、久野の庶民の物事の決め方を表わしている。小田原評定以上に時間をかけて、とことん話す伝統があった、というのだ。これは日本全国古い時代の話し合いの形式として、普通だったようだ。宮本常一が対馬の海の民の調査をした時、古文書をお借りしようとして、対馬での相談の仕方がわかる。古文書を貸し出すかどうか。決めるのに3日3番泊り込みで話し合った、と書いてある。
地域社会で事を決めると言う場合、本当は全員一致しないとならない。誰かに異論がある間は、話し合いがついた、とはいえないわけだ。そこで、エンドレスで話し合うことになる。紛失する不安、学問的価値。結局は貸す事になるのだが、みんなが貸すという結論を出すまで、話し合いが続いた。多数決という決め方。挙手による決め方。無記名投票による決め方。こうした決め方が、民主主義的と思われているきらいがあるが、これを狭い範囲で行うと、良くない事になる。無くなったらどうするんだ。この気持ちが収まるには、無くならない手立ての説明がある。リスクを犯しても、自分たちにとって必要な学問であるという納得。調査する人の人柄。充分解り合うまで、話し合う。
無記名帳票で無いと、本音が言えないから。こんな意見もある。もしそうなら、その組織自体の在りかたがすでに問題なのだ。組織を根本から変えて、自由に意見の言える組織にすべきところだ。相談方法を変えたところで始まらない。もう一つに、自分以外の人の意見を汲み取れない、という人もいる。その人が何を考え何を、言葉の背景で考えているか。直接の発言などなくても、その人が、このことをどう考えているか、物腰、態度で分かっている。近い人間の関係は本来、そういうものだった。
くみ取る、とか。勘を働かせる。こうした力が無いと、言わなければわからない。こう言う事になる。これはつまらないと思う。おおよその場合、言葉に出てくるのは、ほんの一部だ。何故あの時、あの場面で、あんな事を発言したのだろう。これをゆっくり解きほぐす、考える時間が、話し合いには必要だと思う。狭い範囲の人間関係の話し合いは、そこ独特のものが成立しないとダメだ。全てに時間が足りない社会というのが良く無い。