格差社会
突然この言葉で、小泉内閣は叩かれ始めた。格差社会という言葉自体は、昔から使われてきた言葉だ。しかし、どちらかといえば、戦後、日本の社会に格差が無くなったという意味で、取り上げられる事が多かったように思う。若干弱り始めた、小泉内閣に対して、尻馬に載るように、水を得た魚のように、登場した「格差社会」。「言葉の力・言霊」を見る思いだ。
4ヶ月前ほどから、突然、この言葉が耳につくようになった。誰か仕掛け人がいたのだろう。
小泉内閣を叩こうとした者は、全て、逆に叩き潰され続けた。報道もこの力を恐れおののいたように、用心深くなり、身を潜め、様子伺いの状態に、陥行っている様だった。
イラク自衛隊派兵の頃からだろうか。反対勢力であることで、存在感を示そうとしてきた、マスメディアが突然、遠慮気味にしか物を言わなくなった。私の知るところでは、小泉首相の地元紙である、神奈川新聞が一人気を吐いているように見えた。マスメディアの不甲斐なさを、嘆く声をいつも以上に聞くようになった。
それが、待っていたように、噛み付き始めた感がある。「格差社会」この言葉の実感が国民の胸に、スーと入ってきた。構造改革の結果とは、格差社会の事だったのか。こういう事になっている。言葉は怖いものだ。こんなにも分かり易く、この言葉で、一くくり社会の状況が捉えられる事になった。
格差社会の意味するところは、所得格差のことだろう。不景気という事が言われて、10年以上が過ぎた。失業者が増えているということが言われて、10年以上が過ぎた。構造改革の結果、と不景気とは関係があるとは私には思えない。構造改革が言われる前から不景気だった。小泉首相が現れる前から不景気と言われていた。
「不景気が長らく続いたため、所得格差が生じた。」これが実態だと思う。批判する立場に立つものは、小泉憎しで、全て悪い事は小泉の責任にしようとする。正確さを必要にしない、そのとき、国民が一番実感している事を、一言で捉えるセンスが大事なようだ。
マスコミはどうしようもないと言う批判も、同じ感覚だ。マスコミは侮れるものではない。「マスコミはスポンサーの方ばかり見ていて、結果大企業の言い成りに成っている。」とかくこう言いたがる人が多いい。こうした一くくり論は、正確な力を備えた、批判勢力の成長にとって有害なだけだ。マスコミは国民を反映している。とだけは言える。国民の状況を先読みしながら、様子見の角を出している。
確かに、日本のマスコミに、強い主張を一貫して持ち、政府や国民の変化にも影響されない、哲学を維持している。こういうものは無い。これこそ、国民を反映している現われで、こうした国民は極めて少ない。こうした政党すら、少ない。
「格差社会」という時、私は所得格差にだけ目が行く、経済至上主義の方に、日本の社会の病巣の深さを感じる。格差というとき、気になるのは差別社会の傾向の方だ。この言葉が力を得た背景は、差別が生じ始めているからでは無いだろうか。「勝ち組」という言葉も聞くようになった。お金が全てに先立つ。この考え方も昔からあった訳だが、最近この考えが、恥じらいを失い、表面化してきたことは怖い事実だ。
金持ちである事に誇れるような空気への反発が、「格差社会」に込められているように感じる。
この言葉を仕掛けた人間が居るとしたら、すごい事だ。