「君が代」が歌えるかアンケート

石垣市議会では「君が代が歌えるか」アンケートを行うことを議会が決めた。石垣市与党の教育に対する歪んだ姿勢がよく分かる議決であった。石垣市民としては、とても恥ずかしい。情けない圧力議会である。これは私含めた、石垣市の有権者の問題だと考えている。そのアンケートの目的は、国歌を歌えように教育に圧力をかけよる目的である。
さすがに、教育委員会には見識があった。このアンケートを全員一致でやらないこととした。議会からの圧力で、教育委員会としては、教育の現場がゆがめられるということに耐えられなかったのだろう。こんなアンケートを押し付けられるのでは、さらに教員のなり手がなくなる。
「君が代」ときいて、大相撲で千秋楽で歌う歌。と言う回答を聞いたことがある。確かに、君が代は年6回テレビで確実に流れる。そのほかの場面ではなかなか聞くこともない。小学校でも年6回は歌わないだろう。私は4年生の学芸会で、君が代を縦笛で吹いて、ひんしゅくを買った経験がある。
みんながいろいろ出来ることをやったのだ。手品とか、暗算とかいろいろだった。君が代が何故ダメなのかが分からなかった。どうも君が代は学芸会で歌うような歌ではないと、級長の四日市君が教えてくれた。四日市君は日本の国歌君が代が複雑な事情にあると言うことをすでに理解していたようだ。
さすがに彼は後に東京教育大の先生になった人だけある。何故、学芸会にふさわしくないかについて、国歌というものは学芸会で歌うような歌ではないと言うことと、教員組合では君が代が問題とされ、歌わないと言うことを決めている。それを学芸会で私が演奏したと言うことは、教師批判と理解された側面がある。こういうことまで、小4の四日市君は複雑な顔で説明できたのだ。あの微妙な表情は今でも思い出す。
私は脳天気な小学生で、公園でみんなで集まり、先導して、アンポ反対デモ行進遊びをやろうと呼び掛けた。元気に楽しく脳天気に丸山公園で遣っていた子供だ。横に肩を組んで、腕を組んで、並びで、「アンポハンタイ!あんぽはんたい!」とジグザグ行進をするのだ。このジグザグデモがおもしろかった。先生達がやっているのを見て、安保の意味も分からず、面白そうだからまねたのだ。
アンポごっこのほうは先生からすぐに禁止された。先生がやってるのに、なぜ生徒が禁止されるのかは、説明がないのでわからなかった。君が代縦笛の方は先生からは何も言われなかった。先生が歌わないという事と、生徒が歌うのを禁止するということは意味が違う。つまり、言いたいけど言うに言えなかったのだろう。
先生が言うに言えないところを、石垣市議会ではアンケートを採るべきと、教員を脅そうというのに違いない。全く大人げないことだ。国歌は必要だろうし、国旗だって必要だ。しかしそれを尊敬しろとか強制される位なら。ない方が言いくらいのことだ。民主主義において、強制はできる限りない方がいい。
それぞれが日本国を愛し、その国歌や国旗を愛するようになることが良い。強制されれば嫌いになる。強制するということは、自由にしておいたのでは好きになり、歌うようにはならないということだ。80年たっても定着しないとすれば、何か歌のほうに問題がある。むしろその理由を探るべきだろう。その理由は明白なものがある。
大相撲が国歌斉唱をするのは、大相撲を国技と認めさせたかったからだ。大相撲を作り上げあ人は、実に巧みな演出家だ。ちょんまげを残す。伝統的なものであることを、神事と結び付けて証明しようとした。土俵入りには太刀持ち露払い。勝ち力士に代わって、弓取り式。そして国歌斉唱など見事だと思う。
アンケートをとるというやり方が、いかにも姑息でいやらしい。強制などしていないという言い訳がすでに用意されている。調べるだけだといいたいのだろう。しかし、そのアンケート行うことの効果によって、教師が君が代指導に力を入れざる得なくなると考えているのが、見える。このやり口の汚さが情けない。
石垣市議会では君が代斉唱は行われているのだろうか。アンケートをとる前に、議会で議論したらいい。まずその辺から進めてみたらどうだろうか。それで議会で歌うことになったならば、市民は君が代斉唱する議会を、市民がどう考えるかを知ることになる。私は君が代議員には投票しない人が増えるだろう。
君が代アンケートをとると決めた議会は日本でも初めてである。石垣市長が完全に右寄りの人だということがわかる。高市発言によって、石垣市民が中国人観光客が来なくなったらとどうしようと、不安になっている中、堂々と高市発言の支持を表明した中山市長だ。いつまでもこんな市長では困る。残念ながら、石垣市では公明党まで、君が代アンケートの提案をしたのだ。公明党は果たして本当に平和の党なのか疑わしいものだ。
国歌が不要というのではない。君が代の歌詞には問題があると考えている。明治政府が国歌を制定した目的は、明治帝国政府樹立の思想にある。天皇を君主として、現人神として奉り、日本帝国を列強の諸外国に伍して、劣らない国家建設を行うことを目的にしたのだ。その思想を反映した日本帝国の歌詞なのだ。
オリンピックでは金メダルの授与式で、国歌が流れる。歌詞抜きのメロディーである。どこの国の国歌も歌詞は流れない。歌詞には意味がある。意味となると問題のある場合もないとは言えない。多分多くの国の歌詞が、自国をたたえるものなのだろう。君が代は平安時代の「古今和歌集」に由来する歌詞である。
君が代の歌詞もどうも腑に落ちない。君主のつまり天皇家の繁栄を願う歌詞として明治政府が制ていした時点の意味づけでは、「君が代」の「君」は天皇を指し、「代」は天皇の治世を意味した。この歌は天皇の長寿や治世の永続性を祝うものだった。その臣民たる日本国民が歌いたたえようという思想教育が背景にある。
戦後になり、君が代は天皇の治世を意味するものではなくなった。そう言われてもどうも納得は行かない。得意の解釈変更でないか。ご都合主義である。メロディーの方は受け入れても、歌詞の方は腑に落ちては居ない。平和国家日本が永遠に続くようにの願いの歌だというような解釈への、入れ替えは論理的に問題があり、受け入れがたい。
本来であれば、敗戦によって、明治憲法が廃止されて、平和憲法が制定されたときに、国歌の歌詞の方は考え直すべきだったと思う。メロディーの方と国旗の方は、抽象的なものだから、そのままで問題はないと思うが、歌詞を日本の平和主義をたたえるものにすべきだった。
「瑞穂の国は 永久に平和で歩む 世に戦いなくなる日を祈り」
こんな歌詞であれば、石垣議会開催日は、平和を願い、みんなで歌おうではないか。日本国に何が大切なのかを考えるべきだ。天皇だけのはずがない。主君でもない。一人一人の、国民等しく幸せ暮らしを送る国になることだと思う。
間違ってももらっては困るのだが、私はどちらかといえば、皇室の方々を敬愛している。素晴らしい方々だと思っている。特に秋篠宮が日本鶏を飼育されて、素晴らしい書物まで出されていることには感銘を受けている。稲作の模式図である修学院離宮が日本で一番好きな庭園である。
天皇家と国家とは別だということだ。明治時代の帝国主義の亡霊が復活してはならないと考えている。今とても危険な兆候が出てきている。天皇家と国家の関係は江戸時代のような納まりがいいと思う。伝統文化の象徴である。日本神道の神主の立場である。権力からできる限り離れた存在がいい。
占領軍に知恵が足りなかった。せっかく平和憲法を後押ししてくれたのであれば、国歌の歌詞変更も促すべきだった。どうもマッカーサーは天皇主義について、理解が不足していたのだと思う。君が代の歌詞など、意味不明でごまかされてしまったのだろう。
こうした敗戦後の日本のやり直しが、不十分だったために、君が代は不安定なものになった。君が代の歌詞については、まだ納得がいかない人が多いのではないか。だから、ぜひとも歌いたい歌にならない。もちろん軍国主義者と思われる石垣市長のような人には、素晴らしい歌詞なのだろう。
しかし君が代の歌詞の解釈変更には無理がある。新しい歌詞を作るべきだという議論はあったのだ。しかし、占領軍の後押しがなかったために、とん挫した経緯がある。特に公明党は「君は象徴天皇を含むわが国全体と解釈すべきだ」と主張した歴史がある。アンケートを行うなら、この解釈と政府解釈の違いをどう考えているのかを明確にすべきだ。