悲観に関わらない
2025/11/10

のぼたん農園は、のぼたんの群生地が見つかる前は楽観農園である。できる限り悲観には関わらない。世の中は悲観に満ちている。当然のことだ。末世である。神も仏もいない。ああやってもダメ。こうやってもダメ。これが現実であるならば、ダメでも良いじゃん、と思い進んで行くほかない。
のぼたん農園では、出来ないに近いことに挑戦している。楽観でなければ始めることすら出来なかった。悲観的に考えれば、こんな馬鹿なことを始める人はいない。それでもやってみようというのは、もし出来れば、次の社会で大切な農業技術になると考えて居るからだ。
次の社会とはコンピュター革命後の社会である。人間の身体はロボットが代行する。人間の脳はAIが代行する。人間よりも有能な機械が登場する社会である。その中で人間が生きるという意味を見つけなければならない。人間が生きる原点である。食べるものを作ると言うことを、身をもって体験すると言うこと。
身体を使い、自分が食べるものを作ることで、コンピュター革命後の社会において、人間が生きると言うことを自覚すると言うことができると考えて居る。そもそも、100年前までは大半の人間は、自分の身体で食料を作り生きてきた。ところが蒸気機関が登場し、産業革命が起こり人間の立ち位置が変わってきた。
現在、その次のコンピュター革命の進行中である。人間は拝金主義と、競争主義にはまり込み、もがき続けている。これは資本主義の必然なのだが、その状況にコンピューターが割り込んだわけだから、どちらを見ても悲観にならざる得ない。
頭のいい人の中には、悲観の中に落ち込んでいる人がいる。頭ではコンピュターに劣るからかもしれない。そして、楽観を持ってむだな努力している頭の良くない人を、悲観論でやり込めることで鬱憤晴らしをしている。私はその楽観で馬鹿なことをする人間である。
革命進行中の社会である。当然悲観論が優勢である。楽観主義は笑いものである。楽観に生きない限り、前向きには成れない社会であるにもかかわらず。悲観論を乗り越えて、地に足を付けて生きる道を探るほかない。楽観論は実践的でなければならない。
楽観の実戦は失敗がつきものである。その失敗を糧と出来るのが楽観である。このやり方は間違っていた。という実戦の積み重ねが、一歩づつの前進になる。ダメだと言うことが分かれば、次の方法に進める。やらないでダメだろうというのでは、何時までも道は見つからない。
実践の失敗の繰り返しに、未来を切り開く扉がある。のぼたん農園では、石垣島における、「ひこばえ農法とアカウキクサ農法」を模索している。この扉はまだ誰も開いたことがない。当然、出来ない農法なのかもしれない。4年間の失敗である。それでも楽観で五年目に向かおうとしている。
この二つの目標が間違っていれば、何時までも失敗を繰り返すことになる。10年間が自分の身体が動ける許された時間だ。何とかあと6年間の間に、この技術を見つけたいと考えて居る。何がダメだったのかのいくつかは見えてきた。また次のダメだったに向かう以外に道は無い。
まず、石垣島の有機農業による栽培に、適合する品種がない。奨励品種としては、「ミルキーサマー」と「ひとめぼれ」である。東北の品種である。そのために、収量は日本でも最下位の状態である。葉は13枚しか出ない。短期間で穂が出てしまう。化学肥料の促成栽培になっている。
本来であれば、石垣島の気候に合う品種の作出から入るべきなのだろう。しかし、私にはその時間が許されていない。仕方がないので、もう少しマシな品種を捜して、試行錯誤している。ひこばえ栽培では、ウイルスが発生してしまう。ウイルス耐性の強い品種がないかと捜している。
来年は九州沖縄農研機構作出品種「あきまさり」を栽培してみる予定である。もう一種鹿児島県作出の晩稲品種「あきのそら」という品種を作ってみたい。これも可能性は正直低い。しかし、やってみなければダメだと言うことすら分からない。
可能性のあることは、諦めずに楽観的に構えて挑戦する。それ以外に、自給農業の技術の確立はない。40年前山北で挑戦した自給農業はその無鉄砲な楽観の挑戦で、以外にも道が開けた。それから始まったあしがら農の会の自給農業の展開であった。
大豆では、台湾の農家の蔡さんのおかげで、やっと収穫に向かいそうだ。今まで考えていた、小田原で体験した大豆栽培とはかなり違っていた。教えていただいたとおり栽培したら、何とか収穫まで行きそうである。教えていただくことも大切だと改めて自覚した。
コーヒー栽培でも同じである。樹林コーヒー園を台湾で見せていただき、教えていただいた。南澳阿聰と言うところの水田屋農家民宿の黄さんである。大きな森の中に、1mほどのコーヒーの苗木が並んでいた。あのとき、この林がギンネムならもっと良いのではと思いついた。
のぼたん農園にはギンネムの林は至る所にある。ギンネムを生かして、風よけと日照の調整と窒素補給が出来れば、石垣島のコーヒー作りが実現できるのではと考えた。ギンネムはマメ科の樹木なので、土壌を改善する力がある。しかも枝はサトウキビを煮詰める燃料に出来る。
バイオマスで言えば、ギンネムは相当上位の樹木とされている。のぼたん農園でうまく展開できれば、石垣島でのコーヒー栽培技術の新展開になる。私としては、ヤラブの木の樹上テラスで、美味しいコーヒーが1杯飲めればそれで良いと思っている。
水田や民宿でもう一つ教えていただいたのが、蓮栽培である。これもまだどこまで行けるかは分からない状態だが、溜め池を生かして挑戦してい見ている。確かに失敗ばかりしているが、それでも挑戦を止めるわけにはいかない。失敗を糧とする楽観である。
楽観農園である。できる限り悲観には関わらない。世の中は悲観に満ちている。当然のことだ。末世である。捜せども、神も仏もいないのだ。ああやってもダメ。こうやってもダメ。これが現世であるならば、ダメでも良いじゃんと思い進んで行くほかない。
身体を使い、自分が食べるものを作ることで、人間が生きると言うことを自覚すると言うことが必要になると考えて居る。そもそも、100年前までは大半の人間は、自分の身体で食料を作り生きてきた。ところが蒸気機関が登場し、コンピュターが登場し、人間の立ち位置が変わってきた。
革命進行中の社会である。当然悲観論が優勢である。楽観主義は笑いものである。楽観に生きない限り、前向きには成れない社会であるのかもしれない。悲観論を乗り越えて、地に足を付けて生きる道を探るほかない。楽観論は実践的でなければならない。
楽観の実戦は失敗がつきものである。その失敗を糧と出来るのが楽観である。このやり方は間違っていたという実戦の積み重ねが、一歩づつの前進になる。ダメだと言うことが分かれば、次の方法に進める。やらないでダメだろうというのでは、何時までも道は見つからない。
来年は五年目の折り返しになる。また失敗はする覚悟だが、方角は定めなければならない。品種を決めることが一番大切ではないかと考えている。栽培法の問題と、品種の問題を整理をする必要がある。「あきのそら」と言う鹿児島県作出のお米を作ることは出来ないだろうか。ゆがふもちが成功しているのだから希望はある。