笑える絵を描きたい

   

ボナール

 

見ていて楽しくなり、描いた自分笑いたくなる絵が描きたい。そんな楽観の絵になればいいと思っている。人からはへたくそと思われ。世間から軽んじられるようでも平気だ。確かに立派で哲学的な難しい絵もある。なかなかすごい世界観だと思える絵もある。感銘も受ける。でも私の目指す絵はそういう絵ではないことがやっと分かってきた。

立派な絵を描きたいわけではない。描けるわけでもない。描く自分も楽しく描けて、見る人も楽しくなるような絵が描きたい。では漫画なのかと言えば違う。楽水会という水彩画のグループ展があった。楽しく水彩画を描く会。ということだったが、見る人が楽しくなる絵ということではないようだった。私の場合は、描くことにはそれなりに苦しむが、見る人は笑っちゃうような絵の方だ。

それは具体的に言えば、ボナールのような絵と思っている。ボナールは絵を描くことが、好きで、好きでしょうがなかった人だと感じさせる。ボナール自身が気持ちがいいと考える世界を描いただけだったように見える。ボナールの思想や芸術を絵にしようと考えたわけではないはずだ。

冒頭の絵のように、亡くなられた奥さんを思い出して、裸婦で描いていると言うことらしい。絵が全く自由だ。絵の常識みたいな物など全くない。画面は中央で分断されている。人物も中途半端に見えている。手前の机のしろがおおきく一番明るい、そしてさらにその右側には黒々と壁が描かれている。この不思議な構図が何の違和感のないところまで、色彩と調子で調和が図られている。

どんな気持ちだったのか分からないが、画面が光であふれていて、色彩の魔術師と言われるとおりだ。大胆な色使いと、繊細なタッチ。不可能なような調和を見つけ出す。すごい技術力だと思う。この不思議な絵の世界を、ブナールの色とタッチで調和させている。他の人にやれるようなことではないのだから、ああボナールだと誰もが思う。水彩画もあるのだが、私は油彩画よりもさらに好きだ。

このように描けばもっと面白くなる。もっと絵になる。そして美しい絵になると描いている。この自分の絵に迫ってゆく、楽し気な絵作りの姿が実に気持ちがいい。ボナールは展覧会の会場に飾ってからも絵を描いていたそうだ。芸術の世界に立ち向かうのだというような、苦しげな姿勢を少しも感じさせない。そう芸術であろうともしていない。

冒頭の乗せさせてもらったボナールの絵はたぶんルカネのアトリエで描いた絵だと思う。ルカネはカンヌのそばの街だった。もう50年も前になるが、ボナールに憧れすぎていたころ、訪ねた。そのころはアトリエは公開はされていなかった。ドキドキしながら、ベルを鳴らしたのだが、反応もなかった。追っかけファーンのような心境だった。

家の周りをうろうろ歩いて、庭やアトリエをのぞいた。ただ回り歩いて、あきらめて帰った。翌日もまた行ったのだが、やはり反応がなく、あきらめた。むしろボナールが神格化することになった。アトリエを見た人の話など、書かれていたので、何か見せてもらえる手段はあったとは思うが、見れなかったアトリエと、のぞいた庭の方が、自分らしかったかもしれない。そのことは何度も思い出した。

家の中から庭を見る風景を、繰り返し描いている。同じ構図の絵をわずか変化させながら、楽しんでいるように見える。あの苦しげなロスコーの絵と重なってくる。ロスコーがあの色面を作るのに、どれだけ試行錯誤したのかと思う。ボナールもばなーるの絵を作るために、同じ色面を何度も何度も味わっている。絵は実に微妙に出来上がるものだ。わずかのずれでボナールの色でなくなるはずだ。

このわずかな差が、その人の絵になる秘密。だから、絵は身体的である。技術的である。その技術は総合的なもので、あまりに微妙過ぎて、その外観すら説明すらできない。論理を超えた技術だと思う。正逆する様々な混沌をも含みこんでいる。あらゆるものの総合する技術。すべてはその先の世界のことだから、一筋縄では進めない。

確かにゴッホの絵は思想的である。宗教的という方が近いか。ルオーの絵よりも宗教画のように見える。人間の生き方の底が見つめられている。苦しい絵である。辛すぎる絵である。そのことで救済する絵になっている絵である。楽しい絵では救われない苦しい人には魂の絵画だと思う。ゴッホの絵で自殺を思いとどまった友人がいる。絵とはこう言う救済する物なのだと教えられるが、自分が描きたい絵の方角と思うわけではない。

見て楽しくなり、思わず笑ってしまえるような絵が描きたいと思っている。しかし、笑いという物は難しい物である。絵における笑いは深い悲しみの果てにあるような物だ。ここが問題だと思う。深い悲しみの果てなどと書けば、いかにもインチキ臭いわけだが、人間が生きるぎりぎりのところの何かを乗り越えない限り、到達できないような楽観がボナールにはあると思う。

芭蕉のいう所の軽みのことではないかと思う。例の「侘び、寂び、軽み」である。心の成長の経過を言っている。この軽みがなかなかわかりにくい。侘び寂びはどこでも応用される考え方だが、軽みは難解なものなので、使われても誤解されて普遍化はしない。芭蕉は具体的な句を上げて、軽みの意味を説いているがますますよくわからない。芭蕉は俳句ほどには説明が上手ではない。

私なりに考えるところ、重みの反意語である。重みのある表現というのは分かりやすい。軽みのある表現はよくわからない。何故、重みよりも軽みなのか。侘び寂びの先に軽みの世界が広がるかである。禅で言えば解脱した世界のことなのだろう。すべてを受け入れた自由な世界の軽み。芭蕉は隠密だと言われ、全国に無数の弟子が存在するような複雑な人生を生きている。

たぶん、重たかった人生なのではないか。単純に年を取り、隠居して、ある時から軽くなったということではないかと思う。人生出世をしなければならない、栄光をつかまなければならない。幸せになりたい。長生きをしたい。願いが多ければ人生は重い。願いをすべて取り除いたところに軽やかない人生がある。他者や社会を意識しなくなった世界。

軽い人生とは何か。ということに尽きる。芸術は重い人生から生まれるという先入観を、取り払う。ゴッホやロスコーのような重たい人生を抱えていないので、絵に深みがない。というような考え方は、全く無意味なことだと思う。その人であることだけが重要である。重かろうが、軽いものであろうが、その人の重さを描き、その人の軽さを描く、それが絵ではないか。

軽さは軽薄の軽さではない。笑いで考えてみれば、江戸時代にできた落語の笑いである。封建社会の中で抑圧されて生きている庶民。その庶民の絶望の先の笑い。落語は話芸として笑いを磨き上げてゆく。同じ話を100回聞いても、100回目の方がさらにおかしいというような、話芸である。とことん笑いというものを究める。自殺する人がその前に笑うような世界。

ところが現代の笑いは、笑うに笑えないほど幼稚である。瞬時に消え去る世界である。2度目を見れば見苦しいだけの笑い。幼児化している。テレビを見て不愉快になるだけで、苦虫をかみしめている。不愉快で耐えられないのだ。だから見ないことになった。自分が笑いものになるのはいいが、下卑た姿をさらけ出して見苦しい。これが現代の笑いの消費者の水準なのだろう。立川談志が素晴らしいという人がいる。あれが素晴らしいと言うぐらいの水準なのだろう。

絵画世界も幼児化している。そんなことはどうでも今は良くなった。自分の絵を、自分が毎日見ていて、飽きずに笑えるようなものになればと思う。それは願いである。そこまで進めるかどうかはわからないが、日々描き、身体で覚えて、進めてみたいと思っている。絵が進めない理由のほとんどは技術的な物だ。

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