絵が分かるということ

絵が分かったと感じることがある。確信的に分かってしまうことがある。そもそも絵が分かるということの意味じたいが、曖昧すぎることだから、分かろうと分かるまいとかまわないことなのだが、実は絵には明確な分かるという基準がある。
この分かるがくせもので、感覚的な判断が入り込むから、その人それぞれの1+1は2になる。ところがわったと感じている人にはどう考えても明確に結論が出ていることだから、他の人の1+1は2を認めることが出来ない話なのだ。
何かややこしい話だが、つまり絵はそれぞれのもので、共通評価など無いと言うことでも良いのだろう。しかし、描いている自分としてはそういうことにも行かない。自分にとって意味のある絵というものがあると言うこと事態に、共有できる人と、相反する人がいるということになる。分かりにくい書き方しか出来ない。
そして世間にはその基準を認めてはいる。その上で、どうしても他者とは理解し会うことのできない絶対基準を求める。その絵が分かっているという基準は、分かる人だけに分かる基準なのだから、話の互いに通じない、分からない美術の世界のことになる。
ますます分かりにくいので、具体的な話に戻す。以前、このブログのコメントで誰の絵が良いかという話のなかで、どなたかが藤田嗣治の絵が良いという意見があった。私にはフジタの作品は絵画には見えない。イラストの一種に見える。世間の評価からすれば、私に絵が見えていないと言うことになるのだが、自信を持ってフジタの絵を絵画から外す。それは私には私の判断する絵があるからだろう。
と言う意味でここでの分かるは自分の好みがはっきりしていると言うくらいのことになってしまう。ところが、ここでの好みの厳密さは命がけに成るほど、厳密なものである。例えばベラスケスは絵だと思うが、ゴヤは話にならない。と言うような好みの判断であるかのようなものだが、実はベラスケスは絵だが、ゴヤは絵ではないのだ。ゴヤの作品は絵には入れない。それは一体どういうことかとなる。
こんな風に具体的に書けば,ますますややこしく、随分傲慢なことになってしまうことなのだが、絵をそのように考えている以上、そう書く以外にない。ここでは世間が正しいとか、多数決とか言うことはまるで関係が無い。絵を描く以上自分というものは自分が決めるほかないと言う意味なのだろう。
自分が決めて自分と言う何かが、自分の絵を描いている。それが絵というものだろう。ところが絵という絶対基準客観基準があるかのように思いがちである。私が絵であると感じることが、誰もがそうであるはずだと考えてしまう。
あるのかないのか分からないような絵の基準の話を、言葉化しようとしている。この基準が絶対的なものでありながら、全く個人的なものだという、感じを分かって貰いたいものだという話なのだ。この絶対的かと思えば、たちまち霞の彼方に漂うぐらいに曖昧になる絵の基準。
絵を描く以上自分の見方には確信を持ってやるほか無い。他人の絵の基準を絵の判断したところで自分の絵は出てこない。自分の絵は自分で見つける以外にないことだけは確かだ。
絵が分かるなどと書けば、実に偉そうな話で申し訳ないのだが、確かに私のなかには絵の善し悪しの基準がある。本当に偉そうだが、1+1が2であるくらいはっきりとした絵には善し悪しの基準がある。他人の基準もとても参考になるが、描くときにはそれどころではなくなる。
私にとって、絵を見るときに好きとか嫌いとかはない。好きな絵というのは誰にでもあるのだろうが、この絵は好きだというような感覚と、この絵はいい絵だという感覚はまるで違うものだ。絵の判断は直感で受け止めたものを、自分の哲学で確認しているといえる。真理にかなり近いものである。
絵が分かるという感覚が形成されるのはたぶん育ちなのだと思う。10才ぐらいまでに定まっているのではないだろうか。その後いくら努力して頭で理解したところで、どうにもならない。いわば一子相伝の世界のような気がする。
私が絵が分かるのは私の努力と言うより、先祖代々に伝わってきたものといえそうだ。ますます、ひどい話になるのだが、どうもそうとしか思えないので、仕方がない。ご先祖様が空を見上げて感動していたものが、現われてくるようなものだ。
自分の描いている絵も残念ながら、とうてい絵だとは言えない。この判断が自分が分かるという絵の基準なのだ。まだまだ絵ではない。近づいているとも言えない。他人の眼の絵を目指していないと言うことぐらいが良さである。
そう裏返せば、私が認めない領域で評価された絵の世界というものがある。私にしてみればグロテスクなだけなのだが、そちらの方が主流で世間的で、賑わっている。何とも末世だなと思うわけだが、そちら側の人から見れば、私のことなど、どうでも言いくずとしか見えないのだろう事もよく知っている。
そちら側というのも、あるのかないのか分からない世界だが、世間様と言えば良いような価値世界である。履歴などから来る客観評価と、売れているか居ないかの現実社会での商品価値。それ以外を世間から外れた絵と言うことなのだろう。
絵を描くと言うことは世間的なことから離れたことのように見えて、実はだからこそ、世間の影響を受けている。ゴッホはもがきすぎて描いたので、あそこまで到達したのだろうが、マチスは評価されたことであの絵を突き詰められたのだろう。
日々どこに行くのか分からない、基準のない世界で描いているもので、ついついこんなどうでも良いような話を書くのだろう。絵を描いているときはただただ描く中に居るからまだ良いのだが、冷静になれば何をやっているんだろうと言うこともある。
自分の絵を見て何故かと思うことがある。同じ空を描いたことが無いと言うことである。どの絵も空が違う。日々空は違うのだから、当たり前のことなのだろうか。特殊なことなのだろうか。結果的に空がいつも違う描き方になっている。
空は比較的よくどの絵にも出てくるので、そういう比べ方が出来る。では木はどうだろうか。草はどうだろうか。土はどうだろうか。海はどうだろうか。こうしてみると、土はよく似た描き方をしている。海は空に次いで毎回異なる。これは結果的な話なのだが、今度よくよく考えてみたいことだと思っている。絵が分かるという材料になるのかもしれない。