農業を職業にする事は難しくなる。

農業を職業にすることは大変に厳しい状況になっている。農業をして生きるというほど面白い生き方はないだろうから、実に残念なことだ。生活が出来るのであれば、農業をやってみたいという人は沢山いるのだと思う。
特に家が農家であれば、出来れば農業をやれないかと考えることは普通だと思う。しかし、日本の現状では親自身が農業で生計を立てることはもう無理だから、出来れば子供にはどこかに勤めるようにしろと言う場合の方が多い状況では無かろうか。
特に経済の後退して行く局面ではこれからますます、そうした傾向が強まって行くのではないだろうか。農業はこれからを思うと、あまり良い予測は立てられない。資本主義の現状から考えれば、日本の農業は成り立たなくなるものと思わざる得ない。
一方で国の安全保障からいっても、今後食料生産が重要視されて行くことが、起きてくるだろう。世界では食糧不足の傾向が強まっている。お金を稼いで食料を輸入すると言うこと自体が、日本には難しくなって来ると考えられる。当然、日本国内で食料生産を日本人が行わざる得ない状況が待っている。
しかし、その時には日本の農業の構造は食料生産とは違うものになっているだろう。国際競争力のあると言う換金作物の生産に偏っている。そして農業を行う人が大きく減少しているに違いない。その時違う形であれ農業を継続している人がいれば、大いに助けになるはずである。私にはそれが市民的な自給農業者と言うことになる。
この先の世界情勢については誰にも確実なことは分からない。分かっていることは人間は毎日何かを食べなければならないという当たり前のことになる。農業は職業として展望はほとんど無いが、食料生産をしていると言うことは、生きるためには確実性があることも確かである。
そういうことを考えたのは三〇年前あしがら農の会を作ろうと考えたときのことだ。予測したとおり農業人口は減少し、日本の食糧自給は絶望的になった。その情勢判断は少しも変わっていない。私の年齢と農業者の平均年齢が同じ地域が広がっている。もう産業としては成り立たないところに来ている。
職業としての農業が厳しいものであるなら、他に職業を持ちながら、兼業として農業を行うと言うこと以外にない。これは私自身の生き方でもあったわけだが、その後半農半Xと言うことが言われたこともあった。そしてあしがら農の会には食糧自給をやりたいという人が、次々に現われた。
たぶん数百名になることだろう。その動きは今も継続されている。これまでの30年間は予測通りだったと言うことだ。と言うことはこれからの30年で産業としての農業は失われると考えてほぼ当たっていると考えた方が良いのではないか。
ではこれから小さな農業はどうすれば良いかであるか。ここで言う小さな農業とは、大資本の農業以外すべてが小さな農業と考えた方が良い。ますます、そうした自給農業を目指す傾向が強まるのか、あるいはそれどこではなくなるのか。そのことを考えてみたいと思う。社会的背景としては格差社会が強まって行くこと。弱者が虐げられる社会が来るだろうと予測する。
たぶん農業に生きようというような人間は下層国民という位置づけにされると考えねばならない。特にわずかに集約されて残る大規模農業の経営者であれば別だろうが、私が考える当たり前の、小農は社会から無視されるような存在になる可能性が高い。農業者の中でも下層と上層に分かれて行くと考えている。
それは生産性の比較にならないほど低い小さな農業が、生産性など無視して行われている存在自体が、社会の価値体系を無視したような存在だからである。社会からはみ出たような存在として、徐々にその数が増えて行くのだろう。そうしなければ人間として生きて行けなくなるからである。
農業政策も大規模農業重視傾向がさらに強まり、補助金も小農を淘汰して大規模農業を優遇して行くことになる。これは今もそうであるが、その傾向は今後ますます強まるばかりであろう。それが新自由主義の経済であり、国際競争力とはそういう物であろう。
しかし、農業というものの持つ経済以外の役割は失われるどころか、ますます重要になっていく。産業として社会から排除されると、そこから新しい動きが登場すると考えられる。環境保全とか、食料安全保障とかの観点である。
大規模農業が推進されればされるほど、条件不利な農地は放棄され、誰も見向きをしなくなる。国土は荒れてすさんで行くだろう。その限界にまで至った時になり始めて、こうしたところで農業を始める人が社会的に承認されることになるのではないだろうか。
その時がいつ来るかは分からないが、たぶん30年後の私が100才でこの世を去る頃のことだ。それまでは小さな農業はますます社会から軽視され相手にされないような状況に置かれることだろう。大規模農業から見れば邪魔な存在であるからだ。
社会的な疎外をどのようにしのぐかと言えば、同志の集合以外にないだろう。同じ小農の価値観を共有できる仲間を見つけ以外にない。しかし、疎外された社会では、小さな農業を目指す人達の連帯はますます、厳しくなるに違いない。もちろん誰かが準備してくれるなど無いだろう。
社会は小農を排除しようとするはずである。経済優先の社会に置いては、経済的に意味の小さいものほど、存在価値自体も小さく扱われる。本来は小農の価値は大きなものであるが、追い込まれた競争社会では邪魔な存在として扱われる。
しかし、人間ひとりは一日一時間の労働と、100坪の土地で食糧自給が出来る。自分の肉体とシャベル一本で可能だ。ただ、孤立せず共同を求めることが出来るかである。この事実だけはいつでも変わらないはずだ。私自身が30年掛けて証明したことだ。
小さな農業者だけでなく、能力主義が顕著になる社会では弱者は生きにくいものになる。特に肉体労働者は虐げられる。このことに耐えるためには、強い自給の思想が必要になるだろう。社会から離れてもなんとしても生きて行くという思想のもとに、小さな農業者が集まれるかどうかである。
新しい共同体思想が必要になる。その思想の基盤となるものが、小さな農業を置こう実践者である。社会に農業が必要であると言う事実を認知させなければならないだろう。社会は格差が大きくなり、富はほんの一握りの人が独占している。国家以上にこうした企業が社会を動かしている可能性が高い。
企業は消費者も労働者も必要とはしている。距離をもって生きている事は不都合では無いはずである。そうしたより先鋭化した企業経済とどのような関係をを求めて行けるのかなのかもしれない。以上は私の当たらない方が良い予測である。
もしこの予測があたるとすれば、今あしがら農の会で行った、社会実験はその意味を増すはずである。どうすれば合理的な食糧自給が市民協働で行える化の実証実験である。私たちには自然に生まれ自然に出来上がったものだから、どこでも同じことが可能だと思う。