禅画と私絵画

   

 絵の具を3本頼んだにもかかわらず、2本しか来なかった。前回も違っていたのはカドレモンである。どうして同じ色だけおかしくなるのだろう。理解しがたい物がある。しかし、前回もこの間違いを英語でやりとりしたが、うまく出来なかった。

 私絵画(わたくしかいが)は禅画を描いていると言えるかもしれない。禅宗の教義を絵で表すという意味での禅画ではない。自分という物を絵にするということが禅画といえるとすればの意味である。禅という物の本質を考えれば、むしろ私絵画こそ禅画なのかもしれないと思うところが少しある。

 禅には何か宗教的な教えがあり、それを理解し、そのように生きるために禅の修行をするわけではない。そういう意味では、禅はいわゆる宗教ではないと考えてきた。宗教としての大乗仏教は衆生を済度するために修行すると言うことが一般的な大乗仏教である。それぞれの宗教の哲学を自分の物として、生きると言うことが普通の宗教である。

 一見に禅の修行と似ているとも言える、キリスト教の修道院での修道士の修行の暮らしは、キリスト教の宗教哲学の中に暮らすと言うことではないかと思う。禅宗の修行はお釈迦様のあるいは達磨大師の考え方を、自らの物にするというようなことではない。そういうことを考える人もいるとは思うが、数は少ない感触である。

 禅の修行は自己探求である。自己探求の哲学に近いと考える。自分と言うものはどこから来てどこに行くのかを。生と死をあきらめる(諦める。明らめる。)ために修行を続ける。ただ、禅宗も寺院仏教になり、葬式などを取り仕切るようになり、いわゆる社会との関わりを持つようになる。そこで、悟りのような物を言葉や形で、宗徒に対して示すことになる。

 しかし、それはあくまで仮の姿で、本質的には自分の修行のために禅を行うのであり、禅の修行に到達点のような物はないと考えている。悟るというような言葉は、おかしな言葉だと思っている。ある境地に達すると言うことはあるのだろうが、その達したからと言って、それはあくまで境地であって他者との関係で説明できるような物ではないのではないか。

 その人心境がどうであるかだけである。修行をすると志したところから、終わりがあるのではなく、修行の中にいきると言うことなのだと思う。その修行は確かに悟りのような世界を模索するということとも言えるが、けして、悟りという物は、回答というような物ではないのではないか。

 悟ろうが悟るまいが、同じことでただその方角を目指していることなのだと思う。禅という物はどこかにすばらしい結論があるというような世界ではないのではないか。その禅の中で生きる生き方を継続すると言うことなのだと思う。もちろん心境は変わって行く。心境は深くなる。恐れも恐怖も薄れて行く。命という物へのこだわりもなくなって行く。

 私がそうであるというのではなく、そう感じさせる人を見てきた。見てきたので、そうなりたいと思うようになっただけのことである。ただ禅の修行がやりきれないまま、ここまで来てしまった。志はあったのだが、乞食禅を捨てきれなかった。

 しかし、70歳を過ぎ、いよいよ残りが少なくなったと言うことである。やれることをやるほか無いと思い、動禅を考えるようになった。動禅体操である。身体を動かすことに集中して行くと、意識が座禅とかなり近いと感じるようになった。

 身体を動かしている方が動きに意識がゆき、只管打坐であるよりは分かりやすい。座禅に近いかもしれない動禅ならば出来るとするのであれば、インチキだってかまわないので、続けてみることにした。するとなかなか自分には向いているところがあった。向いていたので、1年半毎朝続けたのだろうと思う。

 動禅ではちょっと偉そうで気が重いので、動禅体操と言うことにしたらなおさらしっくりくる。あくまで健康体操の延長としてやることにした。やっと動きが分かるようになってきたら、コロナの蔓延である。死という物が身近になって、なおさら動禅体操に集中できることになったのだろう。

 1年半続けてきて、最近、絵を描く心境が少し変わってきたと言うことに気付いた。動禅をやっているときの心境とかなり近い状態で絵を描いているようだ。そう考えていたわけではないが、絵を描くことに集中するとそんな心境になるようになった。うまく絵を描こうと言うことを思わなくなっている。

 自分らしい絵を描きたいとくと言うことは長く考えてきたことではある。が、絵を作ろうという意識がいつの間にか消えている。ほとんど考えていないで絵を進めている。ただ、絵と向かい合っている。何かが湧いてきたら進める。湧いてこなければただ見ている。

 もし、この絵を描く境地がさらに進めば、それは禅画なのではないかと考えた。当然それは宗教の教義を示す絵という意味はまるでない。自分の境地が絵に表われているのではないかという意味である。良いとか、ダメだとかいう評価とは別のところに絵が向かっている。

 よく考えてみれば、これはここ10年はこのことばかり考えてきた。原発事故以来である。原発事故は人間の文明の方向の失敗である。しかし、人間はもう後戻りできないという現実が、日本の社会である。そして、ずるずると後進国化して行く日本を見てきた。何も出来ない自分という物のふがいなさに直面しながら生きてきた。

 生きる節目に原発事故があり、コロナがある。生きるいる時間と空間と言うことは不思議なことである。自らが方角を変えると言うより、変えるように導かれているような気がしてくる。私という物をどこまでも突き詰めなさいと導かれてきた。

 勝手な理解であるが、自分としてはとても大切な方角である。絵に向かう心境が整ってきたという気がするのだ。自分という物が反応になっている。この反応と表現するしか無い状態は、これが感覚で描いているというのとも大分違うのだ。良い感じであればと描いてはいるのだが、その良い感じを生み出しているのが、感性ではどうもないというような状態である。

 あの人の絵は感覚が良いというような絵はある。しかし、そういう絵を目指しているところはない。絵の中に人生の教えのような物があると言うのでは、全くない。私が観ている世界の感じを、絵に表現しようと言うことのようだ。まだこのあたりが良くつかめていないことだが。

 まだ時間はある。後少なくとも10年今の調子で描くことが出来れば、動禅の心境も一段進み、絵の世界観ももう少し明確になる気がしてきた。そのためには、画狂仙人と自称した葛飾北斎が言うように、一日一枚描き続けてみようと思う。

 どこかで、もうこのブルグ文章が書けなくなったとしたら、絵を一枚掲載を続けることにする。文章が書ける間は日曜展示で7枚の絵を掲載して行くつもりだ。

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