民主主義では経済競争に負けるのか?

独裁国家は、合意形成に時間や人員を必要としないために「民主主義のコスト」がいらない。その結果中国はアメリカとの競争に勝利する可能性が出てきた。と言われている。IT社会の競争では、巨大な資本力が勝利するとは限らなくなったのだ。
膨大な人口がある。そして有能で、熱心な労働力こそ競争に勝利する要因である。その労働力を、強制的な指導力で合理的に働かせることが、今のところ有利になったように見える。日本には中国の経済的成長を認めたくない集団が居るが、そんな歪んだ見方だから30年の停滞なのだ。
民主主義国家の方が、自由な発想から新しい産業が生まれると考えていたが、アベノミクスではついに第3の矢は飛ぶことがなかった。萎縮した企業家は収入が増えたならば、むしろ守りに入り、新産業に投資するよりも、企業防衛を図り、内部留保を高め、投資や資産の保全に奔走するようになった。
福島原発事故で原発を止めることにした優等国家ドイツは、憧れの国家であったが、ロシアへのエネルギー転換政策が、ウクライナ侵攻で破綻しかかっている。今や自由主義社会も独裁国家群も、原発依存を高めようとしている。危険であっても競争に負けるわけには行かないと言うことなのだろうか。
日本の政治が独裁政治で、福島原発事故後、原発を止めて再生エネルギーに国家を上げて向かうという、独裁者が現われたとしたらどうだっただろうか。日本は新しいエネルギー大国になれたのだろうか。あるいは、今よりももひどい経済状態に転落していたのだろうか。
民主主義的にそれぞれが判断した結果、全体としては協調して一つのことに向かうと言うことが、一番力が出る。このことは間違いが無いはずだ。戦後の日本の社会がそうだった。より多くの人が協力し合って頑張れば、豊かに成れる可能性が広がる社会だった。
土地を持つことが出来なかった農家が、アメリカ軍による農地解放で農地を所有することが出来た。頑張って食料生産すれば、豊かな暮らしが目の前に見えていた。境川村の青年団も張り切っていた。そして実際に各農家は豊かになっていった。
シンガポールやカンボジアは独裁的国家であるが、経済成長はめざましいものがある。なぜ、民主主義国家は独裁国家との競争に負け始めたのか。このことを考えてみる必要がある。自由な競争から新しい発想が生まれ、経済競争にも有利と考えられていたことは、間違いだったのだろうか。
人間は独裁者から強制されて働く方が、黙ってよく働くのだろうか。自由な環境では人間は努力できないものなのか。好きなことを見付けて、それを仕事として頑張ると言うことは、間違いだったのか。戦後日本が夢見てきた民主主義国家は幻想だったのだろうか。
すべては能力主義の問題なのではないだろうか。自由な競争が、実は自由な競争では無く、能力の競争になってしまった。そのことを悪い事とは気がつかなかったために、社会全体に競争が激化し、社会が階層化して生産性が落ちることになった。
能力には差がある。能力のあるものが、競争に勝つ。それが正しいことなのだろうか。そんなはずがない。競争主義の結果は能力差に行き着く。能力のないものは差別されて仕方がないのだろうか。そんなはずがない。民主主義にも独裁主義にも、行き着くところに能力差の問題があるのだろう。独裁主義国家であれば、能力差別を徹底することが出来る。
競争に勝つためにはその方が有利と決めつけて良いのだろうか。例えば建設現場で能力のあるものが、能力の劣るものを奴隷的に働かせる事ができるとする。能力のあるものの指示で、その通り動くのだから、仕事ははかどる。それぞれの考えで作業をすれば、相談が多くなる上に失敗も起こる。しかも、建設現場では働く能力の無い人も現われる。
建設現場には能力のある民主主義的なよい親方が存在するのが一番効率が良い。現場で働く労働者には、親方の民主主義を信頼して、力を合わせて行ける信頼する気持ちが必要である。その全体が良いチームになれたときに、全体が最高の力を発揮できることになる。
ところが、親方が悪いとすればどうだろうか。親方としては良い親方になりたいとしても、会社からの無理な命令で良い親方では居られないのかもしれない。会社としても、労働者に力を発揮してもらいたいから、無理なことは言いたくは無いのだが、他所の会社との競争でそうも言っていられない。
こんな悪い競争社会では民主主義的な会社は上手く動いては行かないだろう。良い民主主義社会であれば、独裁的社会よりも上手く機能する。ところが、民主主義が機能不全と言える状態であれば、一部に民主主義を生かした企業があるとしても、困難に陥る。
今の日本社会は民主主義が機能しにくい状態と言えるだろう。良くありたいと考えたとしても、現実はそうも言っていられないという状況。そうなると能力のないものは邪魔者扱いになる。能力のないものは、下層に位置して仕方がないという階層社会の出現。
階層がある社会では民主主義は人間の全体の力を方向付けることが出来なくなる。民主義が悪いのではなく、絶対主義に民主主義が劣るのでもなく、民主主義が能力主義的傾向を強めたために、民主主義がもっている、自由の力を失ったのだ。
社会からの脱落者を下層民として見下すのでは、民主主義社会とは言えない。自由・平等・博愛と能力主義は相反するものなのだ。民主主義が成立するためには、能力主義の克服がなければならない。チームには様々な人が居て、その一人一人がその人なりにやれる。
それぞれの能力が発揮されて、生きてゆくことさえ出来ればそれで問題が無い。良いチームの建設会社が、悪い奴隷的建設会社に競争で負けて、仕事が無くなると言うことはあり得ない。良い建設会社が仕事を取れないのは、奴隷的建設会社が許されているからだ。
民主主義が成立するためには、国家全体が良くならなければならない。悪い議会制民主主義政治の国では、すべてが民主主義的ではなくなってしまう。優遇される大企業があるために、悪い建設企業がのさばる。それが、自民党のパー券脱税に現われている。
日本が競争に負け始めたのは、民主主義が悪いのではなく、悪い政治で上手く機能しなくなったためだ。決して民主主義コストで負けるようになったわけではない。そんなことはあるはずがないと考えて、より奴隷的な能力主義の悪循環に、日本社会は陥り始めている。