好きなことの探し方

   


 「ゆがふもち」の直播きの様子。上をネットで覆っている。土壌に肥料分がなく、その上天候が思わしくなかった。苗が細い。それでもあと1週間で田植えをする予定だ。

 何度も書いたことだが、好きを探すのが子供の仕事だと父親に言われて、絵を描くようになった。絵を描くことを好きだと決めたのは小学校6年生頃だったと思う。色々の子供の絵画コンクールに出していたから、多分その頃なのだと思う。小学校の美術の先生が、根津荘一先生という日展の会友の方だった。

 中学の入学祝いで油絵の道具を買って貰った。渋谷の道玄坂の上の方にあった、地球堂という画材屋さんだ。その頃住んでいた三軒茶屋には画材屋さんは無く、油絵の道具を買うならば渋谷まで行かなければならなかった。渋谷には他にもうえまつ画材があったのだが、そちらではなかった。

 渋谷には今はなくなった路面電車の玉電に乗ってゆく。玉電は今は世田谷線と呼ばれて、三軒茶屋と下高井戸の専用軌道部分だけに残っている。先日豪徳寺まで乗ったのだが、かなり混んでいて、随分利用されているようだ。豪徳寺で小田急線、下高井戸で京王線と連絡をしている。

 なぜ油絵の具が欲しかったかというと、裏のパン屋の大英堂の同級生のつよしのお姉さんが鷗友学園に通っていて、油絵具のセットを持っていたのだ。中学校の美術で油絵を教えていたと言うことになる。それがうらやましくて仕方がなかった。散々親に頼んで、中学生になったら、油絵の具を買って貰得るとなっていた。

 なぜ水彩絵の具を続けなかったのか、今思えば残念なことだが、油絵の方が、水彩画よりも本格的なことだと思い込んでいた。水彩画は小学生が図画の時間に使う、安易な方法だと思い込んでいた。世間がそう考えていた。今でもそれは変わらないことだろう。

 水彩画の方が油彩画よりも、はるかに奥が深いと思うのだが、西洋画と言えば油彩画だ。という明治以来の西欧志向がここにも残っているのだろう。結局13歳から35歳までの絵を一番学習する時期に、油彩画だけを描いていたために、随分遠回りしたことになった。

 その若い時期に描くと言うことを小脳化するべき様々なことを、70歳になってからしている。これは明らかに遅かった。35歳の時に油彩画から水彩画に変わったときに、もっと徹底して水彩画のすべてを身につけるべきだった。それから35年も遠回りしてから、始めて水彩画を初歩からやり直している。

 好きなことだけをしてきたと言うことは、こういう遠回りが多くなると言うことだ。つよしのお姉さんの描いた油彩画は見たことがなかったが、油彩画と言うだけで憧れて始めたのだ。世田谷中学の美術部にすぐに入った。早速6号くらいのキャンバスに静物画を描いた。

 家にそのまま持って帰ったもので学生服が油絵の具だらけになった。学生服など汚れようが、破れようがそういうことはどうと言うことは無かった。だらしない性格だったのだ。親に何故かそういうことで怒られるようなことは全くなかった。

 同級生の美術部員は畠山君と井沢君との3人と言うことだった。畠山君は東京電線という会社で今でも働いているらしい。井沢君はガラス工芸の作家になった。3人とも近所に住んでいたので、良く一緒に絵を描いた。美術部ではいつも静物が置かれていたので、それを描いた。

 中学3年くらいの頃には芸大に行きたいと考えるようになっていた。叔父草家人という人が、そのころ芸大の彫刻科の助教授だったからだと思う。しかしこの希望は父親の強烈な反対に遭った。好きなことをやれとあれほど言っていたのに、この時は本気の反対だった。

 お爺さんは日本画の人だったので、父は美術の世界を十分見てきて、その上で職業としてそういう道を選ぶのは止した方が良いという考えだった。絵を描いて行くにしても芸大は止して、普通の大学に行った方が良いという考えだった。

 父親の考えの影響もあってかと思うが、絵は描くが大学は普通の大学へ行く。そのうち大学は行かないでも良いと考えるようになった。高校の頃調子がおかしくなったのだ。そうした結果、美術系大学の進学のための石膏デッサンの勉強というのはやらないことになった。

 それは今思えば良かった。石膏デッサンをするというようなことは、絵描きになる上では害があると思っている。感動のないものを描写だけして、写し取る技術を小脳化する。これは絵を描く人間にとって少しも良いことではない。芸術というものは興味のあること以外はしない方が良い仕事だ。

 好きな画家である、ゴッホもマチスも中川一政も児島善三郎もそういう画家だ。始めから終わりまで、人に教わることなく好きに描き続けた人だ。そういう天才領域の人とは私が違うのは分かっているが、絵を描く方角だけは同じつもりである。

 日本では芸術としての絵画を、狭く美術品と考えている。藝術としての絵画は美術品ではない。美術品を作ることには興味が無い。商品絵画の時代だから、投資対象としての絵画が出現する。こういうものは芸術としては無意味なことだ。職業画家であれば、仕方がなく商品を作ることになってしまう。

 そういう意味では芸大に行かないで、金沢大学の美術部で好きな絵を描いたことは、自分には良かった。絵を描くと言うことを、生き方として考えることが出来た。父親が言ったように好きなことを好きなこととして貫くことが出来た。芸大に行かない方が良いといった意味が、今にしてみれば理解できる。好きなことと職業とは関係が無い。

 いつも好きなことだけをやるようにしてきた。好きは随分と変わった。それでも絵を描くことだけはいままで続いている。鶏を飼ったり、犬を飼ったり、ラン栽培をしたり、農業をしたり、様々な好きなことが表れた。その都度その好きなことに没頭してやってきた。

 結局は性格的に好きなこと以外が出来ない、つまり我慢して努力するというようなことは丸できなかった。そう思い込むことにしていたからかもしれない。好きだからやりたくてしょうが無いのでやる。絵も描きたいときだけ描いた。描きたくなければ、半年ぐらいまったく描かないで、このまま絵を描くことを止めるのかと思えたこともあった。それでもいいと考えてきた。

 今でも同じであるが、今は日々の一枚である。今嬉しいのはそういう気ままな暮らしをしていても、さすがに年寄がやることだから、仕方がない。と白い目では見られないことだ。若い頃は仕事もしないでどうしようもない奴だ思われていると、意識していた。まあ、人目は気にしない方が言い訳だ。

 今は農作業をしながら、合間合間に絵を描いている。毎朝の動禅もやりたいからやっている。案外続いている。今願うのはこの状態をできる限り長くつなげることである。まだいくらかずつだが進んでいるような気がしているからだ。前がひどかったから、いくらか進むのだろう。

 だんだん好き勝手に描けるようになってきている。好きなことを好き勝手に描く。これは実に有り難いことだ。日々の一枚の成果だと思う。一枚の繪に集中しすぎない。いくらか力まず当たり前に描けるようになってきた。水彩の描き方が小脳化してきたのだろう。

 

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