環境経済学での自然の価値

神宮外苑の森を守ると、西表島の森を守ると言うことでは、環境保護という意味では似てはいるのだが、その影響という意味では大きな違いがある。都心暮らしで家が神宮外苑に近い場所であれば、何としてもその緑を守って欲しいと思うことだろう。
しかし、西表の自然が、地球自然遺産であり、残す価値があるとされ居るものであれば、その経済的な意味は小さいとしても、守るべきものであり、そのように世界に約束した自然環境なのだ。神宮の森が無くなったところで、世界の人から見れば、自然環境に対する影響は対したことではないだろう。
自然の価値には重さの違いがある。地球は人間の暮らしの肥大化で、環境のバランスが崩れ始めている。人間が暮らしを変えない限り、地球環境は急速に進んでいる環境破壊を逃れることは出来ないところまで来ている。その大きな理由は人類の増加と生活の利便化による環境負荷の増大である。
環境経済学というものがある。環境経済学は環境問題が生じるメカニズムを明らかにし、環境問題を解決するための対策を提示することを課題としている。 神宮の森はマンションにして販売し、その利益でゴビ砂漠の保全を行う方が経済的効果が大きいというような考え方だ。
地球温暖化とは、経済活動によって、大気中に二酸化炭素などの温室効果ガスが排出され、地球の表面温度を高めてしまう現象のことである。地球温暖化が生じると、海面の上昇、洪水や渇水などの災害、農業生産への影響、生態系の破壊などの被害が予想されている。
これから途上国が、先進国なみの生活をするようになれば、地球環境は破壊されることは分っている。先進国で暮らしているものが、ブラジルの密林が燃やされて、畑になって行く現実を受け止めなければならない。途上国の生活利便性を否定することは出来ないだろう。
すべての人類が平等に地球環境を守るために行動する必要がある。環境はタダでは守れない。直接的には環境を守っても企業の利益にはならない。このような市場経済のしくみでは環境が適正に評価されず、いわば環境はタダとして扱われ、環境破壊が進んできた。
環境問題が生じる背景には、利益優先の市場経済のしくみが存在する。環境経済学の第一の課題は、環境問題が生じる経済メカニズムを解明し、環境問題の原因を明らかにすることである。環境問題が生じる原因は、環境がタダとして扱われてしまう、資本主義経済原理がある。
環境経済学では地球温暖化、生物多様性の喪失、生態系破壊、マイクロプラステックの増大、原発廃棄物の処理不可能問題など。現実の様々な環境問題を対象に、どのような形で市場の失敗が生じるのかを分析している。環境経済学は、環境対策を実現するための政策手段が示せるかが課題。
温暖化問題では排出権取引という政策が提案されている。日本で温暖化対策を実施すると非常に高いコストがかかるが、アフリカでは安いコストで対策を進めることが可能である。このとき、日本国内で温暖化対策を実施するよりも、アフリカから排出権を購入するというようなことが考えられる。
先進資本主義国家の経済の都合で、起きていることだが、皇居を京都の修学院離宮に移設して、跡地をビジネスセンターにでもした方が、環境経済学的には経済効率が良いと言うことになるのだろうか。しかし、そもそもの自然には自然そのものが備えている価値があるならば、一切の自然は人間による利用はすべきではないことになる。
価値をもつ自然を人の手から守るという、環境原理主義の論理からすると、人は自然と関わらないほうがよいことになる。それは行き過ぎであるということで、現在の環境倫理学や自然保護の世界では、「アメニティ的価値」や「美的価値」のような多様な価値を認めようという考えが出てきている。
自然の価値は神宮の森が、周辺住民に特別視されるように、人間の暮らしの歴史に基づく、環境に対する親愛感が伴う。ご先祖が作り上げた、里地里山の環境は、その地域の住民にとっては、神宮の森よりも身近で決定的に暮らしと繋がっている自然である。
いま中山間地の日本人の暮らしは、失われつつある。これは日本人を変えて行くほどの自然環境の喪失が続いているのだ。人間が自分の身体を動かして、自然に手入れをして、作り上げてきた里地里山という自然環境を、利便性がない。仕事がない。人が居ない。経済合理性だけで、放棄され続けている。
その現実を前にして、世界自然遺産の手つかずの自然を守る意味はあるのだろうかとさえ思う。少なくとも、世界自然遺産の保護は、日本全体で失われつつある里地里山を保全して行く為の、象徴でなければならないのではないだろう。
そうでなければ、日本人が作り上げた自然里地里山。その自然で産まれた日本人と言う民俗。その価値は環境経済学では、十分に考えられていない。作り上げられた自然と、太古のままの自然の価値とを較べれば、人間が暮らしを織り込んだ、里地里山の永続性のある自然ほど重要な自然はないはずなのだ。
同じ場所で、何千年も同じ稲作を続けることの出来る農法の確立は、手つかずの自然環境以上に重要な守らなければならない人間の営みなのだ。稲作を行った長江文明だけが、現代まで姿を変えずに継続されている。日本の里地里山の調和的世界は、その長江文明をより洗練させたものと言える。
環境を守る為には、江戸時代の暮らしを再考するほか無い。自然との関わりは手入れである。大きく変えるのではなく、手入れの範囲で自然の中に、人間の暮らしを織り込んでいく。日本は鎖国という形で、循環型の暮らしを徹底する実験を行った。この貴重な体験を再度見直すべきだろう。
幸いなことに人口は減少している。江戸時代の人口に戻ろうとしている。6,7千万人が日本列島に暮らすのであれば、大きな自然破壊をすることなく、何とか安定して暮らして行ける。江戸時代の自給自足の世界にまで戻らない限り、人類は環境を破壊し、人間は暮らすことが出来ないことになるだろう。
いつも書く繰返しだが、人間は一日1時間食料のために働けば、食糧自給は出来る。それは農薬も化学肥料もいらない世界だ。一人100坪の土地で可能だ。一切の化石燃料は不要だ。私が40年かけて実験した結果そうなる。ウソだと思うものは見に来て貰いたい。
自然も大きく変えることもない。そうした暮らしをみんなが始める以外に、人類が地球を破壊してしまうことを止めることは出来ない。環境経済学は、里地里山の暮らしを再考する必要があるのではないだろうか。