人生の保険はない
2025/04/24

保険の宣伝は多いと思う。保険が必要だと考える人がかなりいるということなのだろう。保険には入らないと決めている。生命保険やがん保険など入ったことがない。火災保険なども入らない。保険という考え方が嫌いだからだ。多分入る人も、嫌だが仕方がないと思い入るのだろう。
生きていれば何か、予期せぬ不幸が起こるのだろう。すべてを自分事として、受け入れようと考えている。運命の中で生きることが、生きるだいご味ではないか。良いことも悪いことも本当のところない。運命として受け入れて生きるということになる。
ずいぶん失敗もしたし、あの時ああすればという後悔ばかりであるが、その時にはそれが全力の生き様だった。何かに保険をかけておくという生き方がどうもいやだ。実際はケチで保険のお金に腹が立った。保険に入るような余裕もなかったと言うこともある。
「巡礼だ。巡礼だ。」「苦しみつつ、なお働け、安住を求めるな この世は巡礼である」(ストリンドベリイ) というヨーロッパの言葉がある。生きるということは巡礼をしているようなものだということらしい。誰もが確証のない探求し、何かにすがる人生を生きている。
托鉢業に生きる。雲水修行ということか。行脚ということか。少し巡礼は違う感触があるが。そうか、お遍路が一番近いのかもしれない。そう思って調べると、四国八十八ケ所の巡礼の旅という本があった。八十八か所お遍路が、いつの間にか巡礼の旅になったのだ。
四国霊場の巡礼は少し違うと思う。聖地巡礼という言葉は分かる。しかし、日本には聖地はない。神域はある。霊場もある。神聖な領域もある。私の感覚では聖地という場所は日本にはない。聖地は殉教の地とか、奇跡の泉とか、神秘の起こる場所。神道的でも、仏教的でもない。
巡礼の、その語源はラテン語の「ペレグリーヌス」に由来するものとある。その原義は「通過者」とか「異邦人」という意味が基本になっているらしい。これを知れば、巡礼はお遍路とは違うことが分かるし、それ派別の意味で深い真実が存在ことになる。
社会の外にいる人間が、社会の外回りを徘徊している姿が巡礼。外部のものという意味が巡礼の主たる意味づけ。埒外のもの。異端者。何かヨーロッパ的なにおいが強い。城塞で囲われた都市国家の中でおびえながら生きる人が都市住民。域外に生きる人々に対して、巡礼として社会の外に落下させてゆく感覚。
お遍路さんは弘法大師の修行の道をたどることで、弘法大師に縋るという思いではないだろうか。懺悔と悔恨の人生のために、お大師様の足跡をたどり、お大師様と共に生きる。お遍路は誰にとっても、内なる自分の代行者である。弱い、罪深い自分の鏡。心の中に迎えられるもの。
修行と浄化を変わって担ってくれている人。日本ではお遍路さんは異端者ではない、誰にでもある悔恨の代弁者である。悲しみを共有する存在。浮世のつらさを代わりに担ってくれる姿。だからこそ、お遍路さんは住民のおもてなしの対象になる。
巡礼はどうだろうか。キリスト教やイスラム教には聖地というものがある。殉教の地であったり、霊験あらたかな泉などである。その聖地をたどる旅を巡礼というのではないか。信仰の見返りを求めての旅。巡礼保険というのはあるのかもしれない。
お遍路保険と言うことになれば、かなり不自然である。まして、行脚保険、雲水保険は有りえないし、千日回峰行はやり遂げることができない時には、死をいとわないことになっている。だから信仰の対象になる。修業とはお布施をもらえる自分であるかの自問である。
巡礼やお遍路の原型になるものは宗教以前のものと考えてもいいのではないだろうか。チベット仏教にある五体投地でラサを目指して進んでゆく旅は、巡礼でもなく、お遍路でもない。千日回峰行に近いそのものが生き方なのだ。イスラム教のハッジとはメッカへ向かう巡礼の旅を意味する。千日回峰行は仏教以前の修験道の修行の在り方なのだろう。それが、仏教の修行に結びついてゆく。
バッチ保険というようなものはないだろうか。100万人もの人が、メッカに集まり、よく大きな事故になっている。保険はそれでもあるはずがない。イスラム教では保険という考え方を、賭博の一種として否定しているのだ。ここがイスラム教らしいところだが、保険を寄付という考え方に変え、保険が行われているらしい。
イスラム教にある、極端な厳格主義と、どこまでも解釈的変容の宗教観はどうにも理解できない。殉教に生きているつもりの殉教者と、同時に富豪や王族の存在は理解できない。石油がなくなったときに、イスラム教国家には保険がない。
保険をかけるような人生を生きたくない。捨て身がいい。修行僧が保険に入ってはおかしいだろう。私の修行人生は。中途半端なものだ。それでもせめて、安全避難路は絶ったものでありたい。我が身のすべてをかけて行いつくす。ダメな時には許していただくしかない。
捨てなければ見えない景色がある。捨てたことで開く、新しい道がある。人間到る処青山あり。明日が、計算できないから面白い。どうなるかわからない、日々が冒険というわくわく感がなければ、明日がつまらない。そして失敗をする、全力で行えたならよしとするほかない。そんな日々に保険は合わない。
とあれこれかんがえていたら、なんと驚くことか。実は現代の聖地巡礼とはアニメのモデルとされた現場を観光するということらしい。全く見当違いに間違ってしまった。これは考えている巡礼とはだいぶ趣が異なる。アニメの主人公が活躍していた場所に行くことで、何か救済されるようなことがあるのだろうか。
保険に入り、安心安全の無難な日々など関係ない。幸いなことに保険に入っていれば、というようなことはただの一度も起きていない。これは運があると考えていいのか、運が悪かったというのか、艱難辛苦をお与えくださいということなら運が悪かったことになるが。
運が良ければ保険入らない。国民健康保険、自動車保険、介護保険もある。入らなければいけないとする保険もある。全く掛け金を無駄にしてきた訳だが、いくらか人のためになっているのかもしれない。というのはイスラム教の考え方か。それくらいが無駄金のあきらめ方。
どこから来て、どこに行くのか。生きるということは雲水行である。悟りを求める菩薩である。明日をも知れず、今日をひたすら生きる。流れゆく水。空に浮かぶ雲。何かに任せながら、全力を尽くす。もうだいぶ来てしまったが、まだしばらくはのぼたん農園の雲水行は続く。