石垣島に帰る。
石垣島に10月15日の今日帰る。小田原に来るたびに充実した2週間を送ることができる。小田原の農の会の仲間のお陰である。これは全く言葉通りのことで、もし農の会の活動が止まれば、私の自給農業は終わりになる。有難いことだ。動ける間は何とか参加したい。農の会が続くことを願っている。
何か、「臘八摂心(ろうはつせっしん)」を成したような気分である。厳しい気分と2週間の農作業を達成した清々しさがみなぎってくる。何かを出来たという充実。それが、食の自給という事に繋がっていることが嬉しい。年に3回の摂心がやってくる生活。今度は11月末からの2週間の農作業。
懐かしい石垣島に帰るという感覚になっている。帰ったら2週間の自粛生活を行う。つまりいつも通りの生活に戻る。只管打画の生活である。達磨大師は8年間修業して悟りを開いたというが、80歳まで絵を描いたら何者かになれるかもしれない。
虎になるのか、石になるのか。仙人になるのか。人間になるのか。それは分からないが、たぶん今のままだろう。今のままでもやれることをやり尽くしてみたい。そのことが絵に現れ記録されてくるだろう、良いものであれ、悪いものであれ、私の日々が絵に現れてくることだけは確かだ。その絵が本当のことに迫るように。
石垣島に戻るという事を考えただけで、絵のことが頭を占めてくる。農作業のことは、もうかなり忘れている。石垣島には11時25分羽田で14時30分には着く。3時間の間に、頭が絵のモードに切り替わることだろう。そうすると小田原のことは思い出さない。申し訳ないようだが、そういう事に決めた。
石垣島では農業はやらない。頼まれてもやらない。その気持ちはますます強くなった。絵を描くという事と農作業をするという事は両立できない。それくらい絵を描くという事に専念する状態に変わった。晴耕雨読という感じではなくなった。
絵のこと以外はあまり考えないような日々になる。あの海の様子、あの空の雲と、絵にするにはどうしたらいいかというようなことが、目一杯の事になる。今回の小田原の暮らしで、そのことを痛感した。小田原では逆に絵のことは頭にも浮かばなかったのだ。
石垣島にいた時には一枚くらいは小田原でも描こうかと考えていたのだが、来てみたら絵のことは全く考えもしなかった。到底絵を描ける頭ではないかった。今度来るときには山梨に行って一枚描くつもりなのだが、果たしてできるだろうか。
コロナに関して小田原と石垣島ではずいぶん受け止め方が違う事に気づいた。石垣島では人口が少ない分、お互いの様子が分かりやすい。どこの息子さんが東京から戻ったようだとか。新しく来た笹村という奴は小田原に行っていたらしいというようなことが、割合ご近所に広がる感じがする。
小田原でもなんだ来てたのという事はあった。それでも稲刈りに来たと話すと、そうかまだ田んぼはやっているんだという事だった。その間、コロナ不安の反応ではない。コロナを思い起こして怖れている感触がない。石垣島ではどうしても人に会う時に、不安を感じさせていることがわかる。それもあって出来得る限り人に会わない。
その方が絵に専念出来て、有難いことでもある。人間らしい暮らしとは到底言えないのだが、石垣島にいるときにはもう隠遁生活のようなものでもいいのかと思っている。不思議にそれがコロナ時代の暮らし方でもある。人となるたけ会わないことが奨励される社会。
石垣島で感染源になるようなことは間違ってもないように、他人には直接は合わない。失礼があっても人に会わない。どれほど気を付けていたとしても、どこでどう間違って感染するとも限らないのがコロナだ。万が一を考えて、自宅待機である。
コロナは人とのかかわりを確認させてくれた。私は人と会うのに、マスクをしてはどうも嫌なのだ。それでも相手を不安にさせるといけないから、マスクをつける。マスクをつけると胴も正しい人との接触ではない気がしてしまう。こんな人とのかかわりは嫌だ。感染しても嫌だ。こういう気持ちが湧いてくる。
コロナによって行動が制限されるという事は嫌だ。老人は自粛すべきとは考えているが、感染しない行動がとれるならその範囲で対応すればいい。野外での農作業は感染はまずない。決まった安全な人とだけしか会わない。今回も感染した可能性はない自信はある。こんな自身は何にもならない。危険思想。
小田原生活は楽しかった。もう帰る時間が近づいているが、寂しい気分だ。昨日最後に、新しく農地をお借りする話で、二人の方にお会いした。一人は農の会の顧問の石綿さん。お元気そうだった。昔話など出来て、人と会う喜びを感じた。
次には新しい地主さんを訪ねた。ところがなんと、前から知っている人だった。訊ねたことを喜んでくれた。お茶のことでお会いしたことがあった方だった。またまた、昔ばなし迄してしまった。こうして小田原でいろいろの方との出会いがあった。小田原で私なりに受け入れられていたというか、居場所があったのだと思えた。
溜池の草刈りが出来た。欠ノ上田んぼの仲間が協力してくれた。有難いことだ。人間一人で出来ることなど限られている。ため池の復元、維持管理舟原に越した時から考えていたことだ。それが小田原を離れた今になっても実現している。
生きている限り続けたい。舟原溜池のカキツバタはその印だと思っている。いつの日か、溜池がカキツバタの池になる。もう誰が植えたのかも忘れられる。しかし、見事なカキツバタの池だから、汚してはならない。維持しなければならないと、考える舟原の住民も現れるかもしれない。
何とか生きている間に、一面のカキツバタにしたいものだ。だいぶ広がってきたので、来年はそれなりに見ごたえが出るだろう。5月のカキツバタの頃には小田原に居たいものだ。ブログを調べたら5月8日にカキツバタは咲いている。
田植えの頃だから、来年も小田原に居るはずだ。できるだけ整備してみんなに楽しんでもらえるくらいにしたい。ため池の看板なども結局のところ、作れないでいる。まあ看板などなくとも、溜池がカキツバタが咲くようになれば大丈夫だ。
カエル間際になって来年来ることを考えている。こうして、2地域居住を続けられる今が幸せな暮らしなのかもしれない。