動禅における空の状態について

   



 禅において肝心でしかも困難を極めることは、心の置きどころである。考えないという、無念無想の心境であろう。無念無想に至ることは凡人には極めて難しいことである。繰返しその境地を目指してはきたが、未だ道遠しである。どうも無念無想に至れるのは天才と、狂った人だけなのかもしれないと不遜なことを考えている。

 曹洞宗の禅では座禅すると言うことが形としては完成形である。形から入り、その形のままに、それが目的と言うことでもある。だから、ただ座ると言うことでは無念無想をひたすら試みるほか無い。私にはこれが出来なかった。

 臨済禅においては考案というものがあると聞いている。座禅を行っているときに考案を与えられ、考え続けるという。やったこともないことなので分からないが、考案を考えると言うことに集中して、雑念を払うと言うことではないかと想像する。

 考案は師から与えられ、ひたすら考えて答えを出し、師に対して答える。師が良いと考えれば、次の考案が与えられ又答えが出るまで座禅を行う。それが10ぐらい出たところで悟りを開いたと言うことになる。15年はかかるという。

 集中して一事を考えると言うことで、頭の中に去来する雑念を消すと言うことではないか。ある意味、思考で雑念を抑えるということで、意味あるようにも思えないが、これはこれで難しそうなきもする。いずれにしても臨済禅では師がいなければ出来ないというものになる。

 ともかく凡人の頭の中はどうでも良いことが次々と通り過ぎて行く。これが当たり前の人間である。能の仕組みがそうなっているのだろう。思考を止めると言うことは脳の機能から言って困難に出来ている。

 そこである一事に集中して、それ以外が湧いてこないようにしたらどうかというのが臨済禅の考案ではないか。道元の禅は天才の禅でそんな凡人向きの指導法など無い。道元の残した禅の作法である普勧坐禅儀では、只管打坐。座禅は悟りに至る道ではなく、座禅そのものが目的であるとしている。

 当然公案の禅も、動禅など論外と言うことになる。この違いの意味はなかなかやっかいではあるが、凡人には道元の禅は困難を極めるため、道元から見れば、えせであるが動禅なりの集中を求め所もあるのでではなかろうか。諦めて禅に関わらないよりはましではないかと、この歳になり今更ながら考えるようになった。

 道元の禅とは違うものという前提で、動禅に取り組もうと考えるようになった。動きと呼吸に意識を集中していくことは誰にでも可能なことだ。意識を捨て去ることは出来ないとしても、どのように動くかに神経を集めて行くと、雑念の湧いてくる予知が少なくなる。雑念が湧いてくると、正しい呼吸が出来ない。正しい動きが出来ない。

 呼吸と動きとを合わせて正して行くことも意識を集中させることになる。座禅を行ったときに比べて、雑念のコントロールがかなり楽である。楽だから継続が出来る。座禅は余りに困難で継続が出来なかった。難しすぎて続かないより凡人にはやらないよりはましである。

 動禅は身体の動きで呼吸を深く、限界以上に行う。鼻の穴は解放している。鼻で息を吸うのではなく。鼻は穴を開いて、空気が通る状態にしている。そして身体の動きに応じて、空気が通って行く。胸を開けば呼吸はより深くなる。手の動きで胸の開きを大きくして行く。

 訓練を繰り返すことで、より静かな長い呼吸が可能になる。一呼吸が始め10の人は15を目指す。20一呼吸の人はさらに25を目指す。より静かな深い呼吸に成って行く。酸素はその都度使い切られるような状態に近づく。

 この限界に近い状態で始まる、身体の状態が雑念を払い、自己存在が呼吸と動きだけの存在に近づく。

 手を上げれば呼吸は深くなる。左手を挙げ呼吸を一呼吸をげんかいまでする。さらに右手をあげれば呼吸はさらに深く可能になる。身体の動きをうまく行って行けば、より深い呼吸が出来るようになる。ただ長ければ良いという競争のようなものではない。

 基本は身体を閉じるときには息を吸い込んでいる。つまりお腹はへこんでいる。身体を開いているときには息を吐いている。つまりお腹は膨らんでいる。お腹で空気が吐かれたり吸われたりする状態である。実際には開いた鼻腔を空気は通過しているのだが、意識はお腹で呼吸をしているような意識だ。

 身体を上げるときには空気を吸う。身体を下げるときには空気を吐く。これを基本として、自分の動きに相応しい、形を整えて行く。これには決まりがあるわけではなく、自分の動きに合わせて一回の動きを決めれば良い。

 そして呼吸を吸いきって動き止める。止めたまま身体の動き求める。この静止の時間を徐々に長くする。吸いきった状態で止めることと、はききった状態で止めることは大きく異なる。この止めた静止状態になりきると言うことも大切である。

 今度は逆に呼吸を吐ききって動きを止める。吐ききったまま身体の動きを止め、これも徐々に時間を長く止められるようにして行く。最初は5を数えるくらいから始め。20を数えるくらいまで進める。

 身体の形で静止する時間も異なってくる。無理をするというのではなく、自然に呼吸が静かに長くなるように進める。身体の動きも呼吸にあわせより緩やかに、しかしより深く動くようにする。

 言葉で説明することは難しいことなので、動禅の境地に至ったときには映像化してみたいと思うが、ともかく10年ぐらいはまだかかりそうである。とすると、80を過ぎることになるが、80を過ぎて正しく動けなくなっている可能性もある。

  無念無想の状態と言うことは、ある程度つかんでいる。それは絵を描いて熱中しているときのことだ。これは何十年と続けている内に、自然そうなったことである。絵を描き始めて三時間くらい何をしていたのかも分からないことが多い。

 何故こんな絵を描いたのだろう。どうやって描いたのだろうということになる。果たして自分が描いたのだろうかというようなときもある。自分に至るための修行として絵を描いているのだから、これが描禅と呼ぶようなものなのかもしれない。

 没我というようなことである。没我状態で絵を描いていることが、果たして禅にちかいとも思えない。修行と言うより、極楽に行くようなものだ。毎日極楽に言ってこれこそ修行だと言えば、馬鹿にされるだろう。このインチキも含めて私である。

 動禅もかなり楽しいものである。するとこれも修行ではないのかもしれない。もう少しやってみて、私が何者かになれたときに人に伝えられるのだろうか。たぶん当たり前だが、誰にも動禅を伝えることもないのだろうが、それならそれで秘技動禅と言うことでやり続けよう。

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