ニライカナイの海

   



 沖縄では海の向こうにある神の国をニライカナイという。海を描くことでその感覚を少し味わっている。石垣島の美しい海を見ていると、この先にはきっとすばらしい世界が待っているのではないかと、空想が広がる。

 そのすばらしい世界は異界である。何かあの水平線の向こうで楽しげに暮らしている人の賑わいが聞こえてくるような幻想が湧いてくる。ふらふらと海に繰り出して行く人がいても何の不思議もない。それほど美しい海なのだ。

 「海が美しいと感じるのは、海の向こうにある希望を見るかのようだ。」海にここではない違う世界の入口を見ているからなのではないか。この違う世界までも描きたいというのが絵を描くと言うことではないか。最近そういうことを自分の絵の行方について思う。

 日本列島と同じくらいの長さで、琉球弧は太平洋に向かって弓を張っている。この大きな海に広がるニラカナイ思想は、海のその又向こうの海から来ていると考えて間違いが無い。人間がアフリカを出て、東の果てまでたどり着く。もうこの先は陸地がない。その無いはずの陸地を思ってニラカナイと名付けたのだろう。

 柳田国男は宝貝を求めて、日本人になった人達は島を渡ってきたと空想を廻らせた。伊良子岬に流れ着いた椰子の実はたぶんミクロネシアのココヤシの実だったのではないだろうか。ヤエヤマヤシはまだ発見されていなかったし、残念ながらヤエヤマヤシの実はあんなに大きくはない。

 石垣島の美しすぎる海をみていると、この日本人の祖先がニラカナイを求めて、日本列島までたどり着くという、魅力ある空想が現実だと思えるようになる。どうしても海の向こうの見えないものを想像するのが人間なのではないか。これほどに美しいものの向こうには何かがあるに違いない。祈りに近い気持ちがわき上がる。

 島影があれば、そこまで行ってみようと考えるのが人間である。なにしろ、アフリカから何万年もかけて日本までたどり着いたのが、人間なのだ。あそこの先には何があるのだろう。あの島にはもっとすばらしい世界があるのかもしれない。追い詰められて日本列島にまでたどり着いたと言うより、夢を追い求めてきたという方が正しい推測だと、石垣の海を見ていると確信できる。

 3万年近く昔の旧石器時代に台湾から石垣に渡ってきた人達の思いもそれに繋がっていたという気がして成らない。この海の向こうにはきっと幸せがある。山のあなたの空遠く。海の向こうの空遠くにあるという、ニライカナイの理想世界。

 石垣島で海を描いていると、ニライカナイの海を描いていることにいつの間にかなっている。それは海原もあれば、草原もある。そして田んぼ原でもある。その向こうにあるニライカナイである。広い広がりがあれば、その向こう側のこと思うのが人間である。

 珊瑚礁の海の透明な輝きである。この海の透明感は水彩画以外では描けないだろう。この海の強い光の輝きは、別世界の輝きのように見える。どうしても海の向こうに絶対的な世界を見ようとしてしまう。

 それは例えば、海を描いているのに希望を描いているというようなことだ。海というものをとことん写生すると言うことだけをしている。ただ何も考えずに海を描いているのだが、絵というものにはかえっていろいろのものが現われてくる。

 もしかしたらニラカナイを描くものが絵なのかもしれない。そういう想像を広げるものが、石垣島の海と空とその間にある岸辺。岸辺とは彼岸と此岸を行き来する境。絵は境目を描くものではないかと思っている。

 境目とは現世と来世とのことである。理想と現実のことである。夢とうつつのことである。ここではない向こう側のもの。目の前のものをとことん見ると言うことの先にある。見えないもの先を描いている。その見えないものだからこそ、その描く人を表す事になるのではないか。

 耕作放棄地を良く描く。人間の自然に対する作為が失われて行く境。遷移のようなもの。変わって行く過程。移ろうもの。こういうものに眼が行く。ニラカナイとは移ろいゆく現世の向こう側にある、変わらないもののことなのだろうか。

 変わらないものを想像するよすがとして、変わりゆくものを見つめる。刻々変化している海を描いていると、変わりながらも変わらない海というものがあることに気付く。

 海のその向こうには異界があり、恩恵をもたらしてくれる。その向こうの世界への憧れは3万年前のご先祖も何ら変わりが無かったのだろう。いつも現世は厳しく、生命の危険にさらされて生きるほか成った。より安心立命できる地を求める気持ち。

 人類の遺伝子の辿っていくと、現在生きているすべての人が、約20万年前にアフリカ南部、ボツワナに住んでいた女性の子孫であることがわかった。とされている。その地は、マカディカディ・オカバンゴ古湿地と呼ばれる場所だ。

 ボツワナから旅立った人類は、次第に世界全体に生息を広げ、遙か東の果ての日本列島にたどり着く。ニライカナイニライカナイと導かれたのではないだろうか。そして3万年前についに石垣島までたどり着いた日本人に成る一族かもしれない人々。

 人類は想像する生き物だったのだろう。現状を認識するだけでなく、違う世界を想像して歩き出す。現状より良い世界を空想できるという類い希な能力。それが人間を人間にした。それがニライカナイではないだろうか。それがニライカナイの海ではないだろうか。

 柳田民俗学の骨格は琉球諸島に漂着した者たちが稲と貝に価値を感じて、それを伝承し定着させていったのではないかということである。この稲をもった日本人の漂着という物語の発端が、柳田が青年のときに渥美半島の伊良湖岬で椰子の実が流れ着いているのを見たことから始まる。明治31年の24歳のときである。
 
 石垣島を描くことで、100年前の柳田国男の想像が、良く理解できる。海の向こうにあるものを実感する。それは恐怖させるものでもあるのだが、恐怖を乗り越えることはどの民族にも成人に成る壁である。

 

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