地方の暮らしで忘れてならないこと

   


 崎枝の小嶺牧場に行くと、生まれたばかりの子牛が茂みの方から出てきた。満潮の日に生まれると小嶺先生が言われていた。小嶺さんは元農業高校の先生だから、牧場のオジーではあるのだが、やはりみんなから先生と呼ばれている。

 子牛は茂みから追い立てられたのだが、すぐに親牛が反対側の谷の方に連れて行ってしまった。小嶺牧場は小屋のない放し飼いだから、親牛は人に見つかりにくい藪の中で子牛を産む。1週間ほどは餌場に出てこないこともあるそうだ。明日もう1匹生まれると言われていた。

 小嶺牧場は青草がいつも一杯だ。牛は食べきれないほどの広さに放牧されている。牧草がやはり美味しいのか、ススキなどは食べない。だからススキの方が優勢になってきている。あれで牧草が足りなくなれば、又ススキを食べるようになるのだろうか。

 小嶺牧場の牛たちは実に楽しそうである。一日描いていても一度も見ない日もある。彼らは全く自由に自給自足的に生きている。しかも、密ではない。まるで自然の中で自由に暮らしているように、日々に満喫しているようにみえる。美味しい餌などもらえないのかもしれないが、日本一良い暮らしをしている牛に見えてきた。

 コロナ流行は経済の転換点になる。理由は人間の暮らし方が変わるからである。小嶺牧場の牛のように、自然に従う暮らしに人間も少し変わる。だから経済が変わると言うことになる。世界は何一つ変わらないように見えても、いつの間にかすこし変化している。

 令和恐慌は世界恐慌になり、かつて経験したことのなかったようなものになるのだろう。政府も初めてのことのためか、繰り出す政策はことごとく間が抜けている。GO TOトラベルをみるともう政府には冷静な判断力が失われているとしか思えない。ついに政府が地方への感染拡大に手を貸してしまった。

 経済を考えるとすれば、消費税の一時停止しかない。今からでも消費税の停止を行うほか無い。景気回復策はまんべんなく行わなければならない。できれば、人間の移動は増えないで、消費が増える政策でなければならない。多くの人が指摘していることであるが、政府にはそれが出来なくなっている。

 新型コロナの流行は次のさらに恐ろしい感染症を予測させるものだ。社会は大都市集中の競走経済を限界だとし始めた。新自由主義経済の資本主義が一国資本主義になった。資本主義は新しい局面に至ったと言うことだ。それは大規模畜産が危険で、小規模畜産に戻る方が良いと言うことでもある。

 歴史を見ると不況が来ると、戦争である。外敵が悪いから不況が来たと責任を転嫁する政府がいつも現われる。コロナの流行は文明の形の問題である。競争社会の限界の一つなのだ。人間の暮らし方には節度が必要なのだ。能力があれば、贅沢三昧の暮らしが出来るというのは、間違っているのだ。

 しかし、悪いのは中国だと、アメリカのトランプは叫んでいる。そして、経済戦争を進めている。それは中国も同様に覇権主義を一層強化している。アメリカ経済がさらに行き詰まれば、どこかで武力的な行動が出てくるかもしれない。中国が行き詰まれば、力で抑えられた人達の暴動が起こるかもしれない。

 アメリカでのコロナウイルスの蔓延を見ると、アメリカ人の暮らしでは未来がないと言うことを示している。二番目の蔓延国のブラジルは大統領まで感染した。日本でも時々見かける、コロナなど恐れるに足らないという、科学性のない人の無責任な言説がこうして世界をダメにして行く。

 世界一豊かなアメリカがこの哀れな姿である。これが資本主義の末期的な姿なのだろう。恐慌は迫ってきている。猶予無くこの先どのように暮らして行くべきか行動開始する必要がある。それが各々の安全保障である。あと1ヶ月で71歳になる私でも、この先どうするかを考えている。

 これから生き方を進める若い人は、新しい時代が来ると考えて、どんな生き方をすれば、自分を生かせるかを考えてみる良い機会が来ているように見える。いままでの常識が捨てられる時代である。すでに新しい潮流として、地方の暮らしが着目されてきている。それを実戦してきた者として、都会よりも、地方には人間らしい生活があると言いたい。

 養鶏業が成立するのは都市近郊だと「自然養鶏」の本に書いた。東京まで二時間以内で行くことが出来て、開拓生活が出来る場所を探した。東京は仕事には良い場所だが、暮らしの無い場所だと考えた。今から、30年以上前の話だ。

 交通が変わり、東京には石垣島からでも時々行くことが出来る社会に変わった。若い人がテレワークなどで都会と関わりを持ちながら、地方社会の中で暮らすことが可能になってきている。日本であれば、大半の場所で新しい生き方を見つけても大丈夫になったと言うことだろう。

 絵は一人では描けない。東京には絵描きの仲間が集まる。若い時代に仲間から受ける刺激から離れることも考え物である。若い内に地方の暮らしを選択して絵を描いた人を何人か見てきたが、絵が独りよがりのものになっていた。自分を客観視できなくなる。人間がきちっと生きると言うことには、仲間を見つけなければダメだ。

 今の自分ではまだダメだと言うことがなければ、成長が出来ない。一人になると人間は後退することになる。怖いのは仲間のいない人はその劣化に全く気付いていないと言うことである。地方の暮らしを選択した場合、仲間を作り出す努力を忘れてはダメだと思う。

 私も絵の仲間とは会えなくなった。水彩人展が開催できない状況である。今の東京の状況を見ると開催したところで、見に来る人がほとんどいないことになるだろう。東京都美術館も開催する団体はまず無いだろう。業者の人達もどうしているのかと思う。

 水彩人展ではウエッブ展覧会を開催することにした。このまま展覧会をやれないままでは、ますます仲間との交流がなくなる。せめてもの事として、ウエッブで互いの作品を展示しようと言うことになった。新しい仲間との交流の方法を考えなくてはならない。


 

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