第11回 水彩画 日曜展示
第11回 水彩画 日曜展示
34,「石垣島 夏の海」1
クラシコ・ファブリアーノ
中判全紙
2020.7
35,「石垣島 夏の海」2
クラシコ・ファブリアーノ
中判全紙
2020.7
36,「石垣島 夏の海」3
クラシコ・ファブリアーノ
中判全紙
2020.7
石垣島に来てから海をよく描く。島に住んでいるのだから、美しい海と空を描きたくなるのも当然のことである。描きだしてみると、いつも目の前にあるあのすばらしい海と空とは違うものになる。見ているものと違うと言うことを突きつけられる。
このところ田んぼに水がなくなり、ついつい海を描くようになった。この三点も続けて描いたものだが、それぞれに空と海とが描き方が異なる。意識したわけではないが、いろいろやってみるほかない。
絵は何を描くのかが問題なのではなく、どう描くのかが問題なのだ。海と空を描くことの意味が問題なわけではない。美しいからと言うのも回答ではない。海と空を描くことを通して何をしたいかが大切である。
生きると言うことは自分という存在の確認をしなければならない。それが私の場合絵を描くということだろう。絵を描くという行為で日々生きていると言うことを確認しているとも言える。海と空をこう描いた。教生きたという証明のようなことだと思っている。
二枚目の絵はこれほど絵の具を塗り重ねたことは始めてかもしれない。海は何度でも海になるまで描いてみることにした。消しては描いて、洗っては描いて、白を重ねて描いて。こう言う描き方は初めてのことである。写真ではそういうことは写りにくい。
それに比べて空はあっさりと積乱雲を描いた。もっと描く気だったのだが、なんとなく良くなってしまってここで止めた。海との境目当たりも厚塗りになるほど描いている。どうしてこういうことなのか、改めて見ながら考えている。
どうも私の絵はどこかに向かっているのではないようだ。結論に向かっているのではなく、今精一杯やれることをしているようだ。次のためではなく、今のために描けるようになったのかもしれない。そうであれば悪いことではない。