絵は分からないからいい。

   



 科学は回答を求めて模索する。芸術は分からないままにうけいれる。こういうことではないだろうか。だから芸術と宗教は似ている。それでも地球は回っているとガリレオは言った。しかし、地球は回っていないという実感を誰もが知っている。

 芸術が探求するのは自分の内部世界である。自分というものはどこまでも未知なものだとして、その未知な状態を分からないまま表現しようとするのが芸術ではないか。

 分からないままでおいて置くのではない。何が分からないのかを見極めようとするのではないか。人間の内なる闇を闇として見続ける。人間の希望がどこから湧いてくるのかを探り続ける。これが絵を描くことだと考えている。

 いい絵を見て感動するのは答えがそこにあるからではない。同じように闇を見つめている人がいるという共感。同じように希望に向かっている人がいるという共感。絵を見て自分の感じ方、考え方、生き方の励ましになるから、感動するのではないだろうか。

 絵には回答が描かれたことなどない。宗教画においていかに信仰の姿を描いたとしても、それは生きる回答ではない。同じように苦しむ人がいる。同じように勇気を振り絞る人がいる。同じように悲しむ人がいるという共感である。そして、この世界観であれば、自分だって生きて行けるという感動なのだろう。

 絵画はその人の世界観を示すものである。世界観とは人間の回答ではないのだ。世界をこのように分からないものとして捉えているという断面を表現することができれば、それは世界観を示していることになる。崇高なことではないが、当たり前におのおのに尊いものである。

 分からないということを、分かろうとして直面している姿こそ重要である。分からないから、人の出した回答を借りてくると言うことが一番ダメなことだ。私も知らぬ間にそうした回答の仕方をしている。そして、それに自分自身も騙されてしまっている。

 自分自身の欺きに気づくことほど情けないことはない。しかし、そうしたした情けなさの繰返しが絵を描くと言うことでもある。もし自分のインチキが表われていればそれはそれでいい。ダメなのはインチキの自分を理想化した自分にしてしまうことだ。そのままであることができれば、許されるのが絵だ。

 これは絵が出来ない言い訳のようなものにもなるが、死ぬまでわからない絵を描き続ける覚悟である。回答のない問いに向かうのは辛い。しかし、それが芸術として絵を描くと言うことなのだと思う。それを私が私自身に向かう、私絵画と名付けた。

 回答のでない覚悟なのだから、人様の役には立たない覚悟がいる。どうにもならない、役立たずの絵を描く覚悟がいる。褒められない覚悟がいる。評価されない覚悟がいる。絵の良いところは、認められなくとも描き続けられるという所にある。辛いことであるし、人間として恥ずかしいことかもしれない。しかし、こんなダメなものだからこそ励みになるかもしれない。

 引きこもりが悪いことのように思われている。しかし、禅僧も、絵描きも、引きこもりのようなものだ。社会の役には立たない。むしろ役に立たないところが尊い。私は役に立たない絵を描くための、自給自足の確立であった。
 世間からはずれて、役立たずに生きるには、せめて食糧の自給をしたいと考えた。このときは絵を描くと言うこともなかった。役に立つ絵が描けない自分に悩んだ時期だ。売れそうな絵を描こうという自分の浅ましさに嫌気がさしたときだ。

 自分の食料をせめて自給すれば、後は絵を描いていても良いとも思えた。禅僧の暮らしもそうであったのだが、托鉢をするというのは自分が施しで生きていると言うことを自覚するためである。お布施を貰う自分を自覚するためである。
 絵はお布施だと言いながら、いかにも売れそうな絵を描いていることほど嫌らしいことはない。と言って売れる絵を描くだけを絵を描くことだと考えているのは職人にも困る。職人を目指している人が芸術に紛れ込んでくるから、絵というものがややこしくなる。

 世界は新型ウイルスで緊急事態に陥っている。当分の間続くことだろう。長い苦しい日常がこの先待っている。常に気がかりなことがある不快な状態が続く。これは現代文明の必然であった。どこかで人間が方角を変えない限り、繰返し起こることである。何故にと思いながら、耐えなければならない。

 トランプ大統領だって、病気になる不安は同じである。人間は必ず死ぬ。死を自覚することで人生を知るという意味では誰しも同じである。コロナで不安を感じたことを、次に前にむかって生きることに行かして行くしかない。

 又いつか来た道に戻るのであれば、学習できないと言うことである。どこの誰であれ、どれだけの世間的な成功者であれ、あるいは何の役たたずの私であれ、この新型ウイルスを生み出す世界を作り出した一人である。他人事にしてごまかすことは出来ない。これは自分が生み出した病気とも言えるのだ。

 この世界に生きている以上、関係のない人はいない。もちろん文明の恩恵をまるで受けないような暮らしを続ける人にしてみれば、単なる迷惑ではあろう。文明の恩恵を豊かさだとして、どっぷりとつかって暮らしている大金持ちほど、責任が重い。

 又そういう人ほど、責任など全くないと思って、こんな事態に陥っても金勘定だけにしか意識が行かない。株価は世界経済が、停滞し後退することが確実なのに、値上がりしている。火事場泥棒のようなものだ。まだまだ懲りていない。
 まだ文明の方角が変わるには時間がかかることだろう。世界は不安定さを増す。自分の穴蔵を掘る他ない。出来ればその穴はトラの穴のようであり、良い仲間と共に修行に生きる場であればいい。


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