大相撲無観客開催、テレビ中継

   




 大相撲の無観客取り組みを15日間テレビで見た。そもそも実際に相撲は見たこともないので、テレビで見る分には大きな変わりがない。解説の人やアナウンサーは盛んに違うと強調しているが、テレビで見る分にはたいした違いもなかった。

 かえって相撲が神技であるという意味がなんとなく漂っているではないか。これは案外に良い試みをしたのかもしれない。力士はお客さんがいないからと言って、手抜きで相撲を取るような人は一人もいなかった。

 特に横綱の白鳳と鶴竜は中々良い相撲を取った。白鳳の真剣さはいつもの場所を越えていたのではないか。白鳳には大相撲を支えているという自覚がある。その自覚がおかしく出てしまい、万歳三唱をやらかしたりはする。これはモンゴル人と日本人との違いの問題ではないかと思っている。悪意はないのだ。

 鶴竜は3場所連続休場明けで、当初は例のごとく引いてしまい簡単に負けた。しかし、ここから立て直したのは見事なことだった。鶴竜らしいスピード感が後半戦には戻った。特に上り坂の朝日富士を立ち会い勝ちしたのはすごかった。

 無観客場所の千秋楽は12勝2敗同士の横綱対決であった。案外鶴竜が勝って、主役の座を白鳳から奪うのではないかと予想したのだったが、やはり白鳳は強かった。これで44回目の優勝。まだまだ優勝できる力はある。

 大相撲が神への奉納という意味で行われる物であれば、そもそも観客という存在はない。神技を建前にした興業であるわけだから、観客を必要とはしているのだが今の時代主たる観客はテレビ観戦である。

 その意味ではオリンピックは無観客では開けない。オリンピックは平和の祭典なのだ。祭典に参加しているのは競技者でもあるし、観客でもある。テレビで見ている人も含めて、世界中の人が平和のために集まるという所に開催の意味がある。

 特に日本では東日本大震災と原発事故からの復興五輪である。観客がいないのでは、復興を示すどころか、日本のオリンピックが世界の暗い予兆を示すことになってしまう。

 大相撲の場合はそもそも神社で神の前で相撲を取るという儀式であろう。行司さんは神官である。誰もいない場所で行司と呼び出しと相撲取りが、黙々と取り組みを行う。大切なところだけが、コロナ阻止の意味で祈りが伝わる。

 むしろ相撲という物の原初的な形を呼び覚ますような感じがある。誰のためでもない、人間の暮らしを守るための奉納の相撲。コロナウイルスの沈静化の祈りと思えばありがたいことだ。

 今場所の開催と力士のひたむきな態度を見ていると、相撲が持っている他のスポーツにはない素晴らしさを再認識した。日本人はすばらしいスポーツを作り出したと改めて感じた。プロボクシングやプロレスリングではこんな無観客試合はあり得ない。

 観客がいないと言うことで、むしろ相撲の本質がにじみ出た。相撲取りの真剣な度合いなど、いつもの騒ぎの中では見えない物であった。見ていると負ける力士がいつもより分かるのだ。取り組み前の様子で、どっちが勝ちそうか観客の騒ぎがない分見えてくる。

 あの競馬のぐるぐる回っている状態を見て勝ち馬を当てると言うことに似ている。勝つ力士の光のような物を当てるのは面白い。それが力士という肉体を鍛えきった者だけの裸の姿だ。なるほどと思わざる得ない。尻の張りが一番調子が表われるという説があるが、なるほどそうかなど見ている。

 そんな感じがしてきたのだ。何か土俵のしたには大金が埋まっているというような物の見方が強い力士を作り出すという世界観は俗でわかりやすいが、案外に人間というのはそれほど安手なものでもない。これが現代社会の間違えだというようなことが、どことなく感じられるのだ。

 始めて大相撲の興業ではない側面が見えた。力士の真剣さはよく見える。いつもの場所よりも実力が表面化している。上がるとか、緊張するとか、興奮するという要素が少ないようだ。いつも堅くなって力の出せない碧山(あおいやま)は稽古場横綱と言われていたが、今場所は優勝争いである。ところが、いよいよというところで緊張してしまい引いて負けてしまった。

 もしかしたら、どんなスポーツでも観客はいらないのかもしれない。無報酬で自分のために行う武道のほうがひとつ世界が深い。こういうことは通用しない世の中ではあるが、無観客試合という形で、少しそういう世界が垣間見られた。

 自分自身のために行う。大多数の人間にとって、運動とはそういう物だ。それが武道となり精神の鍛錬が加わる。千日回峰行には観客はない。テレビの300名山塔踏破番組はプロ登山家とある。観客がいないでも彼は歩くのであろうが、それを職業として、番組を作り生活をする人。

 その登山家は千日回峰行以上に歩くかもしれないが、修行にはならない。何かのために行うと言うことが伴えば修行ではない。無報酬であるからこそ到達できる世界がある。相撲取りはお金だけのようなところが有る。しかし、そうでない力士もその中で現われる。

 双葉山はそうだったらしい。人間の究極を求めて相撲を取った。強いことを超えていた。私は先々代くらいの東京農大出身の大関豊山がそうだと思った。引退して時津風理事長になったのだとおもう。特別な風格を感じた。

 どこの世界にもエライ人はいるとおもった。双葉山が部屋の横砂鏡里を差し置いて、遺言で親方を大関豊山に譲った。お金など無頓着で、礼に始まり礼に終わる双葉山道場を継承した。真面目な豊山を応援していた。

 無観客で行うことで、相撲取り自身も大相撲のすばらしさを確信できたのではないだろうか。最後に幕内力士と親方衆が整列して威儀を正した。この真剣な取り組みをしたことを忘れてはならないとおもった。
 大相撲は祈りがこもっていた。コロナに負けてはならない。力士の気力あふれた取り組みで、コロナ疲れを吹き飛ばしてくれた。無観客と言うことで、財政的には厳しいものがあるだろうが、多くの人が大相撲をテレビで見て、励まされた。この恩は忘れない。すばらしいボランティアだった。

 オリンピックも是非万全な形で取り組めるように、1年なり、2年なり、延期をして世界平和の祭典として、見事に行って貰いたいものだ。

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