名蔵の田んぼと崎枝半島を描く
いつも描かせて貰っているバンナ公園下の牧場からの風景。タブレットの写真に変えたら、写りが悪いようだ。最近絵の写真も写りが悪い。新しいタブレットが悪いのか私の取り方が悪いのか。近いうちに絵の写真は、ちゃんとしたカメラで写そうかと思っている。思ってはいるができるのかどうか。たぶんできないのだろう。
この場所で描くようになって、3年は経つ。たぶん50枚くらいは描いたのでは無いかと思う。石垣島を描きたくなった最初の場所である。バンナ公園の北斜面から名蔵湾を見下ろす位置である。田んぼの水面が見えている。2月から3月が一番魅力的な風景になる。
描き終わることはいつもない。描くことが無くなってしょうがないなと、そのまま絵の保存ダンスに入れてしまう。捨てることもないがまず見ることもない、絵を選ぶことさえできないでいる。絵はドンドン溜まっては行くがどうする物か。死ぬと言うことで一番困るのが絵だ。
描くのは良いのだが、後どうなるのか、せめて記録ぐらいしなければと思いながら、それもできないでいる。それでいいのか、仕方がないのか。考えると少し気が重くなる。
①描き出しである。休むたびに撮影してみた。前に撮影して参考になるところがあったからだ。中央下に田んぼが広がる。写真では田んぼはわずかしか見えない。この絵では一面の田んぼにするつもりで描き始めた。
その田んぼの所はなかなか描けない。描けないと言うこともあるが、できるだけ描かない方が、田んぼの反射する様子が描ける。とこの時点では考えている。
田んぼは海とは違う。人間が作り出した水面である。その水面の広さは日本すべての湖の面積より広いだろう。人間が作り出した湖は気候を変え環境を支えている。
右下のヤエヤマヤシはいつも描く。右下あたりに欲しいという感覚がある。自分の描いているという位置がわかるためには必要になる。一番手前がどこであるかは示す。空間意識をはっきりさせたいのだろう。
この絵では空を少し広くとった。いつも空が狭いからだ。田んぼが画面の中央まで来ると言うことだけは最初に決めたことだ。そして空は広く、それは松波さんの言われたことが頭に残っているためではないかと思う。
色を徐々に置いてい行くが、田んぼは描かない。描けない。まだこの段階では分からない。画面は全体が同じ進み具合で行きたいので、遅れているのでは困る。ともかく色を置かないと、どうしても描き残しの白と着色した部分の色との関係で絵を見てしまうために、絵が進んだときにおかしくなる。
この段階で重要になるのはどこまで自由度があるかだ。どうとでもなる状態で進まないと、つまらないことになる。特に色彩は後戻りはできないのが水彩画である。自由に、でたらめに進めながら、後戻りできないのだから難しい。
田んぼについては白で終わるのでこの段階で色をおく必要はない。と思っている。水彩では重ねて色が暗くなって行くので、全体に淡い状態で進めることが多い。
田んぼに空の色を入れた。空よりも田んぼの方が明るくなる。画面で一番明るいのが田んぼでなければならない。田んぼの持つ輝きが一番描きたいものだ。
空は自由を表し、田んぼは人間の営みを表す。そう言ってしまえば実も蓋もないのだが。そこにアンパルの手つかずの自然が広がる。遷移である。人間の営みとのせめぎ合い。
この辺で今までの流れが行き詰まる。さてどうすればいいのか。一時間ぐらい考え込んでいただろうか。もうこれでいいとも言えるし、今回もダメだったとも言える。
考えているのは個々を突破するためにどう壊して行くかと言うこと。たいていの場合どこか強められないかと思う。
大分強めたところ、すぐメリハリを強くしがちである。しかし、さらに強めなければならない経過。絵を進めるに当たり、このダメにして行く過程が、一番苦しいところ。
しかし絵はプラスだけに進んでいってできるものでもない。どうしようもない状態を踏まえて進む事もある。
わずかずつ何度も塗り重ねながら、色を調整している。ここで一日目が終わる。家に持って帰り、1週間ほど眺めていた。中間の名蔵アンパルの色をもう少し濃くしたいとだけ思った。
その後もう一度持って行き描き進めた物。できあがり感は確かにあるのだが、失われたものも結構ある。それでも最初の意図した田んぼが描きたかったようにできている。
それで良いかどうかは別であるが。空がいまいち曖昧であるかな。しかし、雲に表現を入れると煩わしくなる。ここまでのものか。次では空をもっと大胆にやってみよう。
もう一度今日の午前中描いて来た。どうだろうか。進んだと思うのだが。