日本人はどこから来て、どこに行くのか。

   


ナリヤラン

 人間はアフリカで20万年前に登場したとされる。私のご先祖様であるホモ・サピエンスがアフリカから日本の向かうのは10万年前頃だったそうだ。20代前、100代前のご先祖様は分からないが、10万年前のおおよそ5000代前のご先祖ははっきりしている。人間はすべてひとしく由緒正しい家柄である。

 お釈迦さまもキリストさんもご親族という事は確かだ。この時アフリカを出た私のそして、人類すべてのご先祖様は150人程度だったとも言われている。この150人の一族の旅立ちを思うと、何か素晴らしい想像が広がる。人間の勇気と希望がここにある。
  
 DNAを辿っていくと、今地球上に生きている現生人類はすべて15万年?20万年前にアフリカに生まれた「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれる一人の女性の子孫であることが明らかになっているそうだ。信じがたいようなことだが、歴史的事実である。人類皆兄弟という笹川さんの残した言葉が科学で証明されたということになる。

 そして、おそらく3,4万年前に日本に初めてご先祖のひと塊が渡ってきた。どこにきたかはまだまだ発見があるだろうが、今のところ最古の骨として、2万7000前のご先祖の骨が、石垣島の飛行場で見つかっている。日本に初めてやってきたご先祖の風景は今も大きくは変わらない。石垣島に旅行に行く人は、そういう思いで眺めてもらいたいものだ。

 最初にアフリカを出た一群の行動は、人間というものを作り出した。何故アフリカを出発したのか。追い出されたのか。新天地を求めたのか。あるいはぶらぶらと寅さんのように出かけてみる気になったのか。そのことは分からないが、何かの事情でどこかへ行きたくなるというのは、私の中にもある。新天地を求める冒険心。もっと良いことがあるという希望に誘われたと思いたい。

 人間がこうして地球上あらゆるところに広がったという事は、人間というものは新しい環境への適応能力が極めて高い動物だったということなのだろう。それはゴキブリと同じように、徐々に生息域を広げたのだろう。そしてついには、北極圏から4000メートルの高度まで生息する動物になった。

 冒険心と呼べばいいのだろうか。人間はその場に固執しないで未知の世界に挑戦する動物であったことは確かだ。その都度、困難に遭遇し、それを乗り越える手立てを発見し、新しい生息域を確立する。

 この困難を乗り越える過程で人類は成長したのだろう。寒ければ服を着るようになり、海があれば舟を作り。何万キロ何万年をかけて、ついには極東の果ての日本にたどり着く。新しい場所に対応することで、その能力をさらに開花させてゆくのが人間なのだろう。                                                                                                                               
 様々なルートから、何万年もかけて日本列島に上陸したご先祖の方々がいたのだろう。が、日本は最終生息地になったと思われる。日本からさらにどこかに行ったという話はない。出かけた人はいたのだろうが、風船おじさんのようにどこかで消滅した。

 日本列島全域に3万年以上の時間暮らすことで、様々な系統の人々が混血して、日本人というものが形成されてゆく。最終生息地が日本列島になった人間が日本人と言ってもいい。つまり、ここから排除された人々は消えていったのだろう。

 どうやって日本にまでたどり着いたのかはおぼろげながら見えてきた。では、その3,4万年という時間をかけて、どんな具合に日本人が形成されたのだろうか。このことはまだ私の感覚てきにはよくはわからない。
 石器時代の日本人がいた。4万年以降石器時代の遺跡は日本各地に発見されている。それ以前となると、ほぼないことになる。旧石器時代遺跡が10150遺跡、縄文時代草創期遺跡が2432遺跡と書かれている。石器時代の後半16000年前くらになると縄文土器が出土する。このあたりから、直接のご先祖なのかなと感じるようになる。そして、3000年前になると弥生人が登場する。しかし、稲の花粉は6000年前にもあるという説もあるから、このつながりはまだよくわからない。

 その後も繰り返し日本列島に渡ってくる人はいたのだろう。縄文土器や土偶を見ていると、今の日本人とはあまりの感性が違いにおどろく。新しい人の登場による影響で人間が変化してゆく。混じり合いながら、日本人が生まれてゆく。
 ご先祖は一人のミトコンドリアイブである。そして、150人くらいの一群が世界各地に散らばる。様々な人種などと言っても、もとは一群である。その後流れ着いたところで人種は様々に混じり合って形成される。
 そんな形で、人間は変われるから、生き残れたと考えたい。たぶん美しと感じる感性までも違っている。経路の違う人が現れて、最初はいさかいもあっただろうが、融和して統合され日本人が形成される。

 縄文人も弥生人も一つながりであろうというのが最近の研究の結果である。どうやって今の日本人になるのか。興味のあるところだ。新しく来た人と混ざり合いながら、刺激を受けながら、縄文人が弥生人に変わってきたことを想像すると、喧嘩をしながらも仲良くなった人間の可能性を感じる。

 人種的分類でいえば、日本人は北方系の人から、南方系の人まで20系統の混血で出来上がっていると言われている。時代的にも混血した時間はかなり幅が広いのであろう。と言ってもルートが違うだけで、結局のところ、アフリカの一人のご先祖にたどり着く。だから分岐したルートを問題にしたところで大したことはない。

 私が小学生のころは、縄文人と弥生人は民族として異なるものだとされていた。最近はほぼ一続きのもので、縄文人の暮らしているところに、弥生人が新しい文化をもって流入してゆく。というみかたのようだ。
 昔は、こんなに感性が違う人が同じ人種には思えなかったのだ。違う暮らしの人たちも、喧嘩ばかりではなかった。仲良くなり、混じり合い、今の日本人になる。それ以外の文化もその時々に加わりながら、混合日本人生まれる。それは今だって同じことだ。違いを強調するより、共通項を見つけたい。

 この稲作文化を持った日本人の登場が、その後の日本人を考える上で、重要な要素と考えて間違いないだろう。武士などという一部の権力者に焦点を当てる歴史の見方は変えるべきだ。日本人は稲作百姓の暮らしで生まれたのだ。弥生時代以降の日本人の感性は今の我々と大した違いはない。弥生時代の遺物は私にも感覚的にわかる。

 弥生時代も調査が進むにつれて、過去にさかのぼるようになり、紀元前10世紀には弥生時代が始まると言われる。つまり稲作が始まる。当然、縄文人として暮らしている地域も混成しているのだろう。隣の部落では田んぼというものをやっているらしい。こういう驚異的な話が伝播してゆく。

 稲作の栽培という事になれば日本だけでも3000年の歴史である。ただし、最近のイネの花粉の発見では6000年前にすでに稲作の栽培があったという主張も出てきている。良く分からないが、ともかく3000年前には田んぼが始まっていたと言える。

 稲作は縄文後期には始まっていたというのが、最近の考え方である。今から4000年前には、お米を携えた人たちが日本列島に来たと考えても間違いはない。中国の長江の河岸に野性のイネがある。そのあたりで、稲作は1万年ほど前から栽培が始まったとされている。

 長江の景色を見に行ったことがある。長江の河岸の水位の変化がイネの性質を作ったのだと実感が出来た。結構寒い地域というのも栽培経験的に納得がいった。

 以前は稲はインド起源説が主流であったが、最近は中国説が強くなった。私は稲作をしてみて、イネの生理的な感触から、長江説が正しいと推測している。長江の中流域は結構寒いところである。インディカ種は栽培したこともないので、その特徴もわからない。栽培していてジャポニカ種はインド起源のものとは到底思えない。

 日本人の形成に稲作が大きくかかわった。重要なことは稲作のことである。主食を作る技術を確立する。この過程で日本人の性質が固まってゆく。イネというものには絵のこととして、気になっている。私というものの中身は稲作の影響を受けているという事である。何故田んぼを見ると絵が描きたくなるのか。なぜそれほど田んぼを見ることになったのか。これはこじつけに過ぎないのか。

 稲作と日本人は何度か書いたので、これ以上は触れない。又どこへ行くのかはまた次の機会にしたい。

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