渋沢丘陵にあったシオン診療所

   

 

 久しぶりに大井町から、秦野までを歩いてみた。歩いたと言ってもハイキングではなく、車で移動して降りてはまわりを見ただけなのだが。紅葉が始まっていて、日本の里山美しさを味わう事が出来た。以前は毎週のごとく写生していた場所だ。石垣島を描くようになり、しばらく行かなかった。

 小田原にいる間に一度は描きに行きたいと思いたったら、すぐに描きたくなった。数日出かけて絵を描いた。不思議なもので、絵がずいぶん違う。石垣島には紅葉などないから、色が全く違っている。光の柔らかさも違う。良い勉強になった。

 なごやかに受け入れてくれる気持ちになる。石垣島で絵を描いている時より、ゆったり描けたと思う。関東の里山は優しい里山だ。肩に力の入らない自然である。生まれ育った場所に似ているからだろうか。石垣島を描くときには特別な意識になっている。

 しばらくぶりに見る渋沢丘陵の雨に濡れた景色には、懐かしさがこみあげてきた。子供のころ眺めていた里山の景色である。感性の中に沁み込んだような景色である。この景色を見て美しいということを育んだのだろうか。

 緩やかな丘陵が続き、谷間ごとに小さな集落が見えてくる。そして時には遠く相模湾が、雨の中でも光って見えた。静かな人間の暮らしが穏やかな自然の中に織り込まれている。調和というか、安寧というか。自然から許されるような感覚になる。

 秋の畑は意外に豊かで大根、カブ、付けも用の菜っ葉類。もう菜の花も成長を始めていた。いつも菜の花が播かれているところにはなぜか菜の花がなかった。みかんは収穫が始まっている畑も見受けられた。放棄されている畑もない訳ではないが、皆さん頑張って野菜を作られている。みかん畑もよく手入れがされているので、気分が明るくなってしまった。

 渋沢丘陵の魅力はほど良い人家の出現である。一つ丘陵に登りきると、次の集落が谷間に見えてくる。集落はずいぶんと小さいもので、せいぜい20軒ぐらいである。時には一軒だけ谷間に隠れている。こんな隠れたような谷間での小さな集落での暮らしは、どこにでもあるようで案外にない。

 どこの集落の周辺も良く畑が耕されているのだから、農業を続けられているのは確かなのだが、たまにすれ違う方はほとんどお年寄りである。それにしても行く度に道路が良くなっている。篠窪の集落を超えるような空中橋はもう通れるようになっていた。道路が整備され、ここから皆さん通勤されているに違いない。

 篠窪でしばらくぶりに弁当を食べた。食べていると急に町田先生のことを思い出した。まだ東京に住んでいたころ、中井にあったシオン診療所に先生をお尋ねした。数えてみると35年ぐらい前の事になる。農業の話や就農しての協働生活のことを聞いたことがあった。あの頃、シオン診療所まで渋沢駅から歩いた。結構距離ががあった。その頃は写生をしながら歩いての土地探しばかりしていた。運転ができないし、タクシーに乗るなど全く考えたこともなかった。

 午後は時間があるから、午後にいらっしゃいと言われた。午前中は診療所の診察時間だったのだ。家の脇にある畑を見せてもらった。ずいぶんと丁寧に作られていた。たい肥小屋で落ち葉堆肥を作られていた、切り返しをお手伝いした。

 町田先生は横浜での医師生活から、農的医師として渋沢丘陵に就農した方である。とても意気投合したのだが、私は何もないところで、自給自足したいという気持ちだったので少し迷ったのだが、シオン診療所の共同生活舎に行くことはなかった。町田先生がどうやって農地に家が建てられたのかという事でお尋ねしたのだが、病院だから農地にも建てられるらしいという事はすぐに分かった。

 もしあの頃、シオン先生の所に行っていたら、また違う道を歩む事になったのだろう。人生にはそういう分岐点がたくさんある。シオン先生は紳士である。奥さんも実に純粋な方で、同じところに暮らすのはちょっと無理そうに感じた。私がでたらめだし、自己主張が強すぎる。

 それでも見ず知らずの、訳の分からない生意気な若者に農業を一緒にやろうなどと言ってくれた優しい先生の御恩は忘れられない。見送ってくれて農地は紹介するから来るなら来なさいよ。と言ってくれた。

 診療所の前を通ったのだが、すっかりあの頃とは様子が変わっていて、時間が過ぎたことを改めて確認させられた。時代が変わった気分を味わった。あの庭で春になると、野草を食べる会があったのか。それで弁当を食べて、町田先生を思い出したのだ。

 春の野草の会。とってきた野草を、その野草の薬効のお話を聞きながら、料理をして食べてみる。奥さんが元気で走り回って作ってくれるのだ。あの元気で機転の利く奥さんは、先生の診療所の看護婦さんも経理担当もされていた。感性が豊かなうえに、実に知性的な考えをする方で、著作もあった。それを読んで移住という事を学んだ。

 農的医師として暮らし始めた物語である。どんな名前の診療所にしようかと考えていたら、家の玄関の前にシオンが花をつけたのだそうだ。それでシオン診療所と名付けたと書かれていた。それはあるのだろうけれど、キリスト者であった先生の宗教的な気持ちが反映していると思えた。

 その奥さんが突然認知症になり、町田先生も奥さんを全面的に頼りにされていたのだから、暮らし全般に苦労をされたのだと思う。苦労しているらしいという話を聞いてすぐに先生の方が先に亡くなられた。あまりにあっけなかった。あの時には、何か私たちの移住の時代が終わったんだ、という感じがした。

 今は先生の所で新規就農の方が住まわれて、新しい農業を始めている。その話は不思議にいろいろの方から聞いた。お会いしたことはない。時代はひとこますすんだようだ。
 
 町田先生が亡くなられてから後の方が、渋沢丘陵に通うようになった。だんだんに珍しい景色を描くよりも、当たり前の景色が描きたくなったわけだ。当たり前の景色を全国に探して歩いた。その結果、渋沢丘陵に行くようになった。今これほど美しい里地里山は日本全体でも珍しいのではないかと思う。里地里山がどんな場所か知りたい人はぜひ行ってみると良い。

 その後田んぼのある景色に魅かれるようになり、余り篠窪に行かなくなったのだが、久しぶりに行ってみてまた描きたくなった。描くべきもので、前には見えていなかったものがあるように思えた。それが何か確認したくなって、描いてみた。分かったというほどではないが、気持ちは落ち着いた。

 雨の日が特に美しい。雨にけぶっているから美しい。大山が見えると思うと、忽ちに雨の陰になる。この美しい景色になぜ人がいないのかと思うほど、人がいない。わずかに震生湖のあたりにだけ人がいた。震生湖が美しいとは思わないが、不思議なことだ。

 雨の日に傘を差しながら歩くのが良い。昔はそういう登山を楽しんだこともある。雨を天気が悪いと決めたのは誰だろう。景色は間違いなく雨の方が美しい。濡れ色。雨にけぶる里山。まさに日本の秋の里山である。


 

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