教育の抜本改革がなければ日本は終わる。

   



憲法第二十六条すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。 

 教育の抜本改革がなければ日本は沈没するだろう。このままの貧弱な教育制度を続ければ、日本人は劣化するだろう。すでに、その兆候は顕著化し、アジアにおいても後進国になりつつある。ジャパンアズナンバーワンは、過去の過去の話である。

 現在の日本の教育は身の丈に応じて行う事になっている。それで何が悪いのだというのが、安倍政権であり、萩生田文科大臣である。だからアベの側近中の側近とされる萩生田文部大臣は罷免されない。本音では間違った発言をしたとは考えていないから、辞めない。それが上級国民共通考え方なのだろう。

 これは格差社会を前提とした発言なのだ。裕福で有能な人が評価される社会がアベ政権の目指す社会だ。そうでなければ国際競争力で後れを取ると考えている。これは、日本の戦後社会の求めた、機会均等とか、誰でも努力すれば自分のやりたいことが出来るという理想社会の追及を止めたという事だろう。

 安倍氏も萩生田氏も身の丈に従う社会を目指している。そのように社会を変えようとしている二人である。実際にアベ政権になってから、日本の教育費はOECD加盟国最低になってしった。そして日本は競争力ナンバーワンから、30番に転げ落ちたのだ。こんな事態でアベノミクスは成功と言っているのはどうかしている。

 貧しい家庭に生まれても、総理大臣にも成れるという社会。これは戦後の日本にはあったことだ。今では裕福なところのお坊ちゃんでなければ総理大臣にはなれない社会になったのだ。そしてその社会をさらに先鋭化しようというのが、アベ政権だ。

 萩生田氏が止めさせられないで、英語のテスト方式の方が止めになった。萩生田氏が安倍操り人形一座の演出グループの一人だからである。二人羽織政権とも言われているが、後ろにいる方が多いいので、操り人形一座という方が比喩としては的を得ている。

 桜を見る会の安倍氏後援会関係者1000人参加に自民党内部からひと言の批判もない。同じ穴のムジナたち。よほどアベ氏の背景には恐ろしい見えない力が存在している。桜を見る会が安倍後援会祭りになっていたのだ。水彩人ではそのころ新宿御苑で写生会を企画してかち合って、入れてもらえなかった。関係ないか。

 教育は国家100年の大計である。日本は資源もない。国土も山ばかり。災害は頻繁に来る厳しい条件の国である。ここで国作りをするためには教育以外にない。どれほど貧しくとも意欲があれば、教育を受けられる条件が、どこの国より必要な日本国だ。

 江戸時代の日本の教育水準は世界でもトップクラスだった。庶民も寺子屋で読み書きそろばんを勉強した。識字率もトップと推測されている。教育を尊いものとする国柄だったのだ。

 戦前は軍国主義の悪い国ではあったが、この点だけは道が開かれていた。優秀な人材をどの階層からでも探そうとしていたのだ。貧困家庭から、優秀というので無償で高等教育まで受けられる制度があり、人材が発掘された。

 教育の無償化が良いとは全く思わない。努力すれば、教育が受けられる範囲が良いのだと思う。例えば格安な学生寮の完備。私の頃にはこれがあった。地方の人間には不可欠なものだ。自宅から通えない人間には必要なものだ。

 教育の実費も現状では高くて困るが、これは奨学金などでかなり克服できる。しかし、生活費の方はさらに費用がかさむ。同じ日本人でも都会に自宅のある人間が優遇されていることになる。教育の地方格差は深刻なものがある。

 地方の若者が、都会で教育を受け、都会で暮らすようになる。それが地方の疲弊に繋がっている。結局は都会で就職して故郷に戻らないのだ。教育機関の地方分散も積極的にやらなければならない。東京ではなく金沢大学に行けたことを感謝している。金沢で良い友人と出会えたことで、上級国民を目指さない自分になれたとおもっている。

 国立大学の学費値上げ、学生寮の値上げは私たちの頃に始まった。その為のストライキなどした。しかし、結局のところ国立大学も私学と同じに、自力で行ける場所ではなくなってしまった。

 教育も受益者負担と言われた。大学教育も受ける人が恩恵を受けるのだから、その分を自分で負担するのが当たり前だというのだ。これは間違た考え方だ。学問は自分の為に行うものではない。社会の為に学ぶものだ。

 個人の利益のために教育があると考える社会に方向が変わった。それが身の丈発言に繋がっている。自分の為だけでは力が出ないのが人間だと私は考えてきた。人のためにという事があるから、人間は頑張ることが出来る。ノーベル賞を取られるような学者の方は皆さんそう言われる。

 自分さえ良ければ、社会全体のことなど関係ない。金儲けの何が悪いのだ。これを推し進めているのが今の教育の方向である。この方向では当然受益者負担という事になってしまう。こんな方向のままでは日本の様な条件の国は成り立たない。

 能力のある人はアメリカの方が給与が高いのであれば、日本から出てゆくことになる。利益を出すためには、日本という枠が邪魔になるという企業の登場である。このままでは日本という国は、空洞化し疲弊してゆくに違いない。

 教育は自分の為だけではない。自分が学び成長したことを社会に還元してゆく。そのことが教育の目的だ。それが自分の喜びでもある。そう考えれば、教育は受益者負担ではなく、社会が負担するという事が当然ではないか。教育は自分の金儲けの為ではない。

 日本は50年前に教育の方向を間違えたのだ。大学闘争は失敗に終わった。そのドドのつまりがアベ政権の登場だ。身の丈に応じて教育は行われるのが当たり前であるという考えだ。本音としては教育の機会均等の憲法を変えたいのだろう。もういい加減、憲法のでたらめ解釈は止めて欲しい。


 
 

 - Peace Cafe