従軍慰安婦少女像の展示禁止

   

 愛知トリエンナーレにおいて、従軍慰安婦少女像が展示禁止となった。今回の事件で一番驚いたことは、余りにすんなりと展示禁止が決定されたことだ。しかも、展示禁止が問題だとする意見が少ないことだ。
 韓国が許しがたいという大衆の感情、あるいは、社会の関係ないという無関心が権力の横暴を許す。今は人ごとだと思っていることが、必ず自分の身に降りかかってくる。
 ガソリンをぶちまけて火を付けるというような、暴力行為の脅しによって美術館が展示を取りやめた。暴力に屈する前例はない。警察が出動して、徹底した監視をしても展示は続けなければならない事例である。脅せば言いなりになるという悪い前例を残した。
 展示中止の実態は全く違う。政府が政治的に気に入らないから、展示を中止したのだ。そういってしまえば実も蓋もない。憲法違反である。必ず訴えられるだろう。権力にありがちな汚いやり方のごまかしである。輸出制限も同じである。徴用工問題をすり替えている。この正面から戦おうとしないやり方が、アベ独裁の不愉快でずる賢い姿だ。
 世の中の意識が変わってきている。了見が狭く、なってきている。自分と違うものの排除をすぐ口にするようになった。理由として、いつも税金を持ち出す。いわば多くの人が名古屋市長の河村氏のような人になってきている。自民党にも似たような人は多いようだ。自分と異なる少数意見というものは、押しつぶしてかまわないという人が日に日に増えてゆく。
 今回の事件によって、日本の社会において芸術表現の自由が狭まいという事が明らかになった。何でも自由だという建前の中で、実は核心に触れるとその牙をむき、平気で自由を踏みにじる権力。
 美術館という場所がどういう場所であるかが理解できていない。以前書いたが、日本大使館前の従軍慰安婦少女像は止めるべき事だ。しかし、美術館は時代からも、社会からも、一定の距離を持つ場所でなければならない。芸術は自由な環境で育つものだ。わずかでも、制限があると感じるところでは育つことができない。
 日本の芸術が衰退した原因は、こういう制限付き自由にあるのかもしれない。何でも自由にでききる社会と見える。檻の無い動物園で、上手に閉じ込められて飼われている。禁止領域が見えにくいように設計されていることが嫌らしい。
 対立軸がごまかされてしまうために、戦う相手が見えない。こんな生半可な社会ではいかにも芸術が育ちにくい。それが忖度社会なのだろう。拘束に気づかないぽちの社会。
 鎖付きの自由が、日本の自由の特徴であろう。動物園の動物は幸せだという自由だ。この社会の特徴を、表現の不自由展という形で表現したことは、ひとつの芸術的行為と言える。どこまでやると逆鱗に触れるのかが、分かるように表現された。
 芸術は時代や、社会から距離を置くからこそ、その本当の力を発揮できる作品だ。現代社会が資本主義の泥沼に入り込むことで、芸術作品を商品価値だけで見ようとしている。しかし、作品はそうした資本主義的価値観を超えていなければならない。今の時代から嫌われるものであれば商品価値は低いだろうが、未来の人間にとって大切なものになる可能性はある。
 そうした、可能性のようなものを含めて、美術館には社会的な価値基準で作品を見てはならない場所なのだ。作品は絶対であり、政治的であろうが、反社会的であろうが、高価な商品であろうが、理解不能のものであろうが、世の中の都合で作品の評価をしてはならない場所である。いわば純粋観念空間だから価値がある。
 そのような特別な場所を用意することが、豊かな社会の条件である。美術館には見たくない人が見ないで済むようなスペースと表示が必要である。特に今回のような展示においては、入場者に展示作品の説明が必要である。
 今回あっさりと美術館が何の抵抗も見せずに世間の世論に従ってしまった。自分の職務を守るような職員はいなかった。つまり、世間の価値基準が美術館にまで持ち込まれているのだ。これは芸術の問題として大問題である。
 芸術を志す人間、芸術に関与する美術館の人間は、等しく、少女像展示禁止に抗議しなければならない。それは全く政治とか外交とかとは関係の無いことなのだ。芸術が育つ環境を失うことにつながっている事件だ。こういう事件が起きたと言うことは、すでに芸術の絶対的自由というものが失われた社会と言う自覚が必要である。
 自民党の議員の数名は、いきり立ち何故8億円ものお金を出したのか。こんなものを認めた奴は誰だと。美術館側の職員や担当の行政を責めている。とんでもない筋違いだ。関係者は正しい判断をしている。
 お金の支出の面からしか判断できない政治家には芸術作品や美術館の意味など全く理解できないのだろう。自民党を批判するテレビ番組を見て、スポンサーに降りろと騒いだ議員と同じである。
 従軍慰安婦は歴史的事実に反するから、展示してはならないという主張がある。美術館という場であれば、歴史的事実であろうが無かろうが全く関係が無い。美術館という場を理解しなければならない。そうした芸術を理解した美術館は、公的美術館設立の目標なのだ。健全で自由な社会がそうした美術館を育てるものだ。
 何故税金を使った美術館が、たとえ歴史的事実に反している作品を展示して良いかをもう一度確認したい。芸術作品というものは、その作者の社会に対する表現なのだ。受け止める社会が、それを見る能力が無ければ、成立しないものなのだ。
 従軍慰安婦少女像は芸術作品として成立しているかどうかが重要になる。写真で見た限りでは成立していると見ている。レベルはそれほど高いとは言えないが、いい加減でちゃちなものでは無い。真剣に作っている。韓国の芸術レベルは50年前は高かったが、今のことはよく知らない。
 パリの美術大学で紅衛兵の描く作品展が開催されたことがあった。すべての作品が同じであった。同じであることが国家としての意味であったのだろう。中国の当時の空気がよく理解できた。こうしたものを論表抜きで展示する美術大学をすごいと思った。
 
 韓国も日本も同じであるが、芸術が明らかに不自由で弾圧されていた時代の方が良いものがあった。芸術の中にある反骨精神のようなものが育つのだろう。社会の不条理をバネにして芸術的衝動が育つ。芸術に良くないのが、一見自由に見える柔らかな締め付けだ。自由が無いと声高に叫ぶことさえ難しい。忖度と戦うことは難しい。
 気になるのは報道も触れない、天皇の写真を燃やす映像の方だ。本当はこちらが暴力予告の原因としては大きいのでは無いか。この問題に向き合わないで、ごまかして終わらせるのが、報道機関の忖度である。報道も暴力を恐れていてはまずい。無視する不自由は自覚しなければならない。

 - 水彩画