舟原溜池の5月のすばらしさ

   

舟原溜池は今一番良い季節を迎えている。いかにも小田原の風景の良さである。この普通の景色が大切に思える。小田原と言うと海の見える景色になるのかもしれない。東洋のリビエラと呼ばれた時代もあったらしい。確かに早川や根府川辺りの石垣の積み上げられたみかん山の景色は独特のものがある。しかし、山側の久野の風景の日本の里地里山の姿を残した景色にもなかなか捨てがたいものがある。棚田のある景色である。小田原の田んぼは千代、永塚、桑原、鬼柳と平地の方の酒匂川周辺に多いのだが、こちらの方の田んぼは区画整理がされてしまい、風情のないものになってしまっている。やはり本来の里山の景色は曽我丘陵と、箱根の東側の山麓にある。小田原の市街地越しに遠くに海をの見える景色である。曽我丘陵の梅やみかん越しの富士山ともなかなか良い。久野の方はありきたりの景色の良さである。ごく普通の景色である。ところがこの普通の景色というものが一番消え去ろうとしている。生まれ故郷である山梨県の藤垈部落にはもう昔の姿はない。農村の暮らし。山村の暮らし。その場所に根差したごく普通だった暮らしというものが、消え去ろうとしている。
多分今急速に失われているのが、ごく普通の景色である。世界遺産には縁のないありきたりの里山風景である。普通の日本人の暮らしてきた集落が消えようとしている。特別な五家荘の様な景色であれば、残されるであろうが生まれ育った部落は消滅しかかっている。それは危機感もないまま、ごく当たり前に変貌し、刻々失われている。日本人的なものはそういう場所で醸成された。戦後の貧しい暮らしの中でも、青年団が活気に満ちていた農村。まだ江戸時代にまで連なる農民の暮らしがわずかに残っていた。当時としては食糧がある農村はまだ良かったのかもしれない。キーンと耳が痛いほどの静寂に包まれた日常。凍り付くような寒さ。身を寄せ合う暮らし。村の何処の畑にも野良仕事をする人がいる。山仕事に行く人が馬を引いて、黙々と山に登ってゆく。みんな止まったように、絵には入いっていた。子供には里山の暮らしがいつまでもこのままあるかのように見えた。江戸時代と大きくは違はないような、日本の暮らしが藤垈部落には残っていた。実はその根の所が失われてはいたのだから、気づかない庶民の暮らしというものは脳天気なものである。
舟原溜池にはわずかにあの静寂が残っている。見上げる明星岳、明神岳は特別な山ではないのだが、当たり前に良い姿で守ってくれている。親しみに満ちた自然。里山の自然。分け入ることのできる自然。拒絶しない自然。手入れによって生まれた自然。舟原溜池は江戸時代の初期に、田んぼを少しでも広げるためにできた溜池である。舟原溜池には田んぼに対する情熱が表現されている。酒匂川流域の平野部の方が暮らしの乏しい時代である。人の暮らしがむしろ小田原の山間部に集中していた。江戸への薪炭の販売である。人が暮らすという事は、田んぼと結びついている。山の中に何としても田んぼを作ろうとしている。山の大きさがその地域の生産性を表していた。城下町小田原、宿場町小田原とは違う、小田原の里山の暮らしである。私はむしろ、この小田原の里山の暮らしこそ残すべきものと考えている。それは日本人の未来の明かりであるからだ。この先の日本へ歩むためには、一番振り返らなければならないのは、普通の暮らしのことに違いない。
幸いにも、舟原溜池は残った。江戸時代の久野地域の暮らしを想像させる農業遺構だと思う。この先、田んぼそのものが失われてゆくであろう。小田原の農業者も70歳である。団塊の世代が動けなくなれば農業者は一気に減少する。経済性は間違いなくない。大型化は出来ない。そうである以上自給目的の田んぼ以外は消える。人口も減少し始めている。里地里山から失われると見て間違えがない。田んぼが無くなれば、もう小田原の本当の暮らしを想像させるものはなくなる。城下町と宿場町という側面だけが、小田原であるという事になる。それでは、人間の暮らしというものの本質を見失うという事になる。ごく普通の当たり前の暮らしこそ、未来に伝えなければならないものだ。しかし、こうした当たり前のものは見向きもされず消え去りがちである。すでに3つあった舟原溜池も、2つはごみで埋められて跡形もない。唯一残った溜池を美しい場所として残す以外、方法はないと思う。花の咲く美しい場所になれば、ごみ捨て場にはならないだろう。そうして50年先に田んぼが無くなったとしても、「何だろうこの美しい池は。」という人がいるに違いない。あと5年は美しい池にするために楽しむつもりだ。こうしたことをやらせてもらえる縁をありがたいと思う。

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