ガレッジセール・ゴリさん監督の映画「洗骨」

   

ガレッジセールのゴリさんは実は映画監督の照屋俊之氏である。沖縄本島の人だ。この映画は監督がその母に送った映画だと思う。観ていて母への思いを映画にしたような気がした。石垣の映画館ゆいロードシアターで見せてもらった。入場整理券がでるほどの混雑という噂で、前もって予約券をもらいに行っておいた。家から5分ぐらいだからそういう面倒も、散歩の楽しみなのだ。観に行った日は相当の豪雨で傘を差して歩いたのだが、ずぶ濡れだった。お客さんは案外に少なかった。石垣の人たちに混ざって、「洗骨」の映画を見るというのはなかなかのものであった。石垣にも洗骨の風習があったとは聞かないが、あったのかもしれない。石垣のお墓は丘の上にある。人家と混在して大きな墓が立ち並んでいる。洗骨の風習は離島に今もわずかに残っているらしい。50年前岡本太郎がその風葬の状態を撮影して、新聞に発表して問題化した事件がある。岡本太郎のまねをして、風葬の場所に了解も無く撮影に入って、地元の方々に不快な気持ちにさせた事件だ。心ない野次馬たちの馬鹿な行動が大切なに守られてきたものを傷つけた。風葬と言うことだけを取り上げてしまうと、何か原始的な風俗のように捉える人もいる。しかし、日本で火葬が普通になったのは私が子供の頃の話だ。まだそれほどの歴史があることでは無い。私の生まれた向昌院でも土葬が普通であった。狭い山の斜面の墓地に所狭しと埋めなければならなかったので、隣の墓地のまだ埋葬して日の浅い骨が出てきたなどと言うこともあったのだ。
山梨では火葬にするというのは伝染病にでもなった人の特別な埋葬法であった。薪がたくさんいるので大変だったと、上野原の赤痢の流行で看護師としていったおばあさんは話していた。土葬の方が楽と言うことがあったが、ともかく深く掘らなければならない。深く埋めてその上に大きな石を置く。獣が掘り起こさないようにと話していた。冗談めかして言っていたが、その石は一年ほどするとドスンと落ちて地面に穴が開く。魂の抜けた穴にオコッチンじゃ無いぞ、足を引っ張られるからと言われた。棺桶が潰れて、石が落ちるのだ。そうすると、成仏したとみんなで話した。そののちにお墓を作る。ゴリさんの映画の話だった。素晴らしい映画だ。人間が生きるという原点がよく表現されていた。風習には風習なりの成り立つ意味がある。洗骨を取り上げなければならなかった意味も理解できた。
この映画の素晴らしさは笑いだ。笑いを通して初めて伝えることのできる世界があるということだ。現代はお笑いの時代だ。時代があまりに深刻で分断されている。唯一お笑いで人間が共通になれる。笑いの力をよく知った人の映画だ。ゴリさんのこの伝え方にはさすがのことだと感動した。この家族は、ある意味悲劇ばかりだ。現代社会の悲惨が次々に降りかかっている。もう誰しも他人事では無い、分断された悲しみは深い。それは伝えられないほどの断絶した悲惨なのだ。倒産、アル中、一人暮らし、離婚、シングルマザー、都会の孤立、全く救いの無い現実が押し寄せる。笑ってごまかすしかない。お笑いになり繰り返されてゆく。ところがこのどうしようも無い社会に押しつぶされた、家族が絆を取り戻すのだ。それが洗骨である。命というものに直面するという、現代人の最も薄れてしまった感触を、まざまざと実感させてくれる。笑いの中に秘められた導火線だ。
そして、真剣な洗骨の儀式。笑いから一転して滅多に無い真剣な世界との対決。笑いの導火線があって、初めて真剣にものに対すると言うことが生まれる。真剣は火花を散らす。見たくないはずの、腐敗しているだろう死体が、全く見事なものとして現れる。見事に清潔な骨に洗骨される。この安堵感。人間の回復。浄化。家族の絆の復活。見るものはともに浄化される。映画によって浄化を体験をさせてもらったような、豊かな気持ちになる。安藤サクラさんのお父さんがでている。いつも大げさだからと少し不安だったのだが、これが抑えた演技で良かった。役者って、どんどん歳を重ねて良くなる人がいるから、そうなのかもしれない。一つ難点を言えば、言葉がまるで沖縄で無い。都会からの移住者という設定と考えればいいのかと思ってみていたぐらいだ。大島蓉子さんがよかった。快演である。滅多に無い迫力である。この演技を見るだけでも、この映画を見る価値がある。娘役の水崎綾女さんも素晴らしい。出産のシーンでは一緒にわたしも力んでいた。

 - 石垣島