原発事故とあしがら農の会

   

農の会では福島原発事故後何が起きたかを記録しておくことになった。しかし、文章は集まらなかった。集まらなかった理由はいろいろあるのだろう。文章が集まらないのだから、福島原発事故に関する文集としては出せないことになった。掲載するつもりで書いた文章を8年目になる今日のブログに出すことにする。

私の中には消えない傷がある。自分のふがいなさというか、原発事故にきちっと立ち向かえなかった。どう立ち向かえなかったのか。そもそも原発を黙認してしまったことへなのか。この事故を予測できなかったことへなのか。事故の把握ができなかったことへなのか。理由さえよくわからない訳の分からないむなしさくやしさを、を書き残す気持ちはある。絵では何とかそういう思いを描いたつもりだ。それしか書けなかったというべきか。農の会の25年の活動に大きな影響を与えた原発事故のことを、それぞれが書き残しておくことも意味あると考える人が、書けばいい事かと思う。書きたくもない人もいれば、思い出したくもない人もいるだろう。もううまく忘れられた人もいるだろう。今更余計なことだと思う人の方が多いかもしれない。だから、この記録集はひとりしか文章が集まらなければそれはそれで作ればいいと思う。そのひとりにとっての忘れてはならないという思いである。

この事故で農の会の中に人間の分断が出来た。たぶん日本中で様々な形で分断を起こしたと想像される。それまでの生き方を問われたのだから、当然のことだ。それまでは足荒農の会は、地場・旬・自給の楽しい農作業の集まりの会であったのだ。それが、原発事故に遭遇して、それぞれの生き方がむき出しになった。特に自給という思想の下で集まったのだから、原発は痛みとしてそれぞれに突き刺さった。そしてそれが分断となって表れた。その分断が今も続いている。この記録集も、何でいまさらと腹の立つ人もいることも分かる。それでいいというか、書かざる得ない私の行為も仕方がない思っている。誰にぶつけたらいいのか、自分のことなのか。この原発事故でむき出しになった人間がいたという事。情けない自分に耐え難った。呼びかけだけは広く行ったが、文章は寄せられないようだ。それも原発事故らしい、一つの答えなのだろう。

原発事故は原発を受け入れて来た人間も、原発をやめろと叫んでいた人間も、我関せずの人も、すべての人間の責任である。日本に生きている人間全員が他人事というわけにはいかない。しかし、当事者たる推進した政府というものが、責任をとらない。運営をしていた東電は責任をとらない。原発を受け入れた地元自治体も責任をとらない。そうした無責任体制のもとに、原発がすでに多数再稼働を始めてもそれを止めることもできないでいる、日本国の日本人がいる。原発事故も、原発再稼働もすべての日本人の責任である。もちろん責任は私にもある。その責任は認めたうえで、さらに責任の思い、東電と政府はまるで他人事であることが許せない。許せないなどという言葉では済まないのだけれども。再度の原発事故があったとしても、再稼働を認めた地元自治体を許さない気持ちだ。その自治体の長を選んだ人たちの責任は特に重い。私は再稼働を認めた自治体を憎んでいる。そうしたことを止めることのできない自分に不甲斐なさを感じて生きている。憎み、許さない。こんな言葉では済まない話なのだが。

福島原発も地元自治体が自分たちの利害で原発稼働を決めたことは明確にしておいてもらいたいと思っている。今、再稼働を認めたことも同様の責任が生じている。要するに国の方向が変えられないのは、日本が弱まっているということなのだろう。都会の電気使用者の被害者だというような都合の良い、言い訳はだけは今度は止してもらいたい。都会の為に自分たちの我慢が役立っているのだというような、勝手な言い訳だけは止してもらいたい。民主主義社会である。地域の自治体には拒否権がある。自分たちの選択にともかく責任を持ってもらいたいものだ。

東日本大震災の起きた8年前の3月11日は、銀座の一枚の絵のギャラリーで水彩人展のオープニングパーティーをやっていた。古いビルが崩れるかと思うように揺れた。私は何の根拠もなく、大丈夫だ、大丈夫だと対応すらできないで、変に笑っていた。そして、帰宅困難になりぞろぞろと東京の街を歩き回り、Sさんの息子さんのマンションのホールに疲れてたどり着いた。海沿いのマンションだったので、途中橋を渡るときに異常な潮位の上昇があった跡が分かった。恐ろしいことが起きてしまったとラジオは告げていた。巨大な津波があったらしい。ここにもまた来るのか。それでも幸運にもゆっくりと休める温かい場所に居られた。

全く頭が回らず、状況がつかめないまま、翌朝やっと動き出した電車で小田原に戻る。どうも原発が事故になっているらしい。原発がメルトダウンして、早く遠くに逃げなければ、忽ちに関東まで放射能が及んできてといるという。本当のことなのか、何もわからなかった。深刻すぎる情報がひっきりなしに入ってくる。呆然としてしまい思考の停止。命の危機には動けなくなるということだったようだ。今思えば何もできないで、原発事故はないと理由なく考えて普通に暮らしていた。春分の日には種もみの浸種を行い、普通に農作業を続けていた。この間、冷却できない原発が日に日に深刻さを増してゆく。地球最後の日が近づいているのに、何もできない真っ白な恐怖に、じわじわ取り付かれ始めていた。

農の会のお茶摘みが五月の連休に通常通り行われた。田んぼの準備もいつものように始まった。今思えば何という楽観なのか。言い訳をすれば、いつも通りに暮らすことが一番まともな選択だと考えていた。そのお茶が放射能汚染されて、政府から廃棄が命じられることになる。田んぼの土壌も汚染されてしまう。大変なことが起きているらしいが、どうしようもないことであれば、受け入れてそれなりに、通常どおりに暮らすほかないと、そう思っていた。この時には、お茶が放射能に汚染されている、危険な食品になると予測した人は居なかった。まさか廃棄が命じられるとは驚きであった。それでも、きっと黙って参加を取りやめた人は居たのだろう。ただ例年以上の人の集まりであったことも事実だ。

今思えば迂闊なことだが、お茶は放射能に汚染されて危険だから止めるべきだという、その程度の認識さえも誰一人なかった。開催した判断力の欠如は情けないことだ。安全にこだわる農の会でもお茶摘みをやめるべきだといった人は居なかった。汚染を調べたのは一農家の判断である。私たちがやるべきだったと今にして思えばいえる。5月の連休の頃にはむしろ、一安心していたのかもしれない。その後お茶が出来たころ、廃棄が告げられてはじめて、深刻にこの事故が自分に降りかかってきた。その頃から、放射能の危険を誰しもが主張するようになった。徐々に放射能が現実となった訳だ。福島の避難地域では、避難が命じられ有機農業をしていた人の自殺が報道されてた。そこまでの困難は福島だけのこととしか考えていなかった。そうでなければお茶摘みをやる人は居なかっただろう。生まれた土地を離れる辛さ。先祖伝来の農地をと頑張った農地が、一夜にして汚染され使えない土に変わった絶望。この現実がどれほど深刻なことなのか。農業をやるものとして少しだけ理解ができる。生きる意味が消失する。

お茶の汚染が伝えられ、オタを無残にも廃棄した処から、やっと原発事故が現実になる。放射能は来ているという事は十分にわかってはいたが、まさか、お茶が飲めないレベルだったとは、何かと涙が湧いて出るようになる。農の会の農産物の汚染がここから様々に問題になる。汚染の測定をしなければならないと慌てふためく。但し費用はかかる。費用は掛かってもともかく測定をしよう。最初は空間線量の測定から始める。空間線量についてはさして高いところはなかった。そして土壌の調査へ。そして私は卵の測定をする。幸い卵はほとんど汚染はなかった。卵は蓄積しにくいのか、食べている餌が汚染が少ないのか。そういう意味では輸入飼料の鶏は全く問題がなかった。しかし、汚染のレベルをはるかに下回りはしたが、放射能がない訳ではない。ここから放射能のにわか勉強が始まった。放射能は通常どこにでもある。問題はそのレベルにある。ここで意見が分かれ始める。農の会は農産物の販売をすべきではないという意見が出る。それを生業としているものも販売をやめる人が現れる。移住する人も現れる。不安と、危険がごちゃごちゃになる。

汚染レベルではないとはいえ、販売してはならないということを言われ始めた。カリ肥料を使う事も良くないという人さえ現れた。様々な考え方が飛び交い始める。もう小田原には人が住めないと主張する、元テレビ局の人の講演会が南足柄で行われた。このころから不安増幅派と思考停止派に分かれたようだ。この分断は心の深いところにいまも残っているが、いずれの派に所属しようとも、そのことで人間を判断してはならないと思う。自己で人間の本性が現れたという事で、互いにいがみ合った。日々本質で生きていないという事を考える。横浜の教育委員会は小田原ミカンが基準値のはるかにしたにもかかわらず、使用を禁止する。どこでも安心が優先され安全基準というものが機能しなくなる。

ともかく農産物の放射能汚染度を計ろうと考えた。今現在の小田原の大気の放射能の濃度を計ろうという事になる。その数値を私たちなりに把握してゆく。そして土壌や農産物を出来得る限り測定してゆく。途中からTウオッチの協力を得られることになる。そして、膨大な数のサンプルを測定をすることになる。販売している玄米卵の放射能の測定を繰り返すことになる。幸いにも強い汚染には成っていない。こう書きながらも今でもその意味はよく理解できていない。地球上のあらゆる食べ物に放射能がないなどということはあり得ない。そう思いながらも販売を続けることもためらわれた。汚染の数値を説明してそれを判断材料にしていただき、了解する人にだけ販売を続けた。売る方も買う方も痛みが伴った。売ることをやめた人もいた。売らないということはおかしいと考えた。測定活動はあしがら平野一体で行った。水の汚染度の測定を工夫して行った。その後東京大学のアイソトープ研究所にも田んぼの測定をお願いした。測定活動を頑張ることを義務の意識で行っていた。

食糧を販売する責任というものを複雑に感じた。私の卵を食べる人に安全な食べ物であると、言い切れないとすれば販売を続けることは難しい。しかし、卵を販売することが自分が生きてゆくという事でもある。自分が食べるものに関しては、放射能汚染されていたとしても、自分の作ったものを食べることにした。お米は汚染がそれなりに高かったことは分かったのだが、食べた。自分の自給という事を考えると、それ以外の結論はなかった。この汚染も自分自身の責任であるという自覚。それは今も再稼働を止められないという責任でもある。放射能をまき散らした責任は私にもある。そして、科学的に安全と言われる数値の意味はもんだいではない。それなら食べるべきもの、いや食べなければならないものだと考えた。安全でなかろうが、自給で生きるということはそういうことだと考えていた。

当然、農の会の市民活動としての意味も大きく変わる。農業をやろうと人を受け入れる事がためらわれる。今まで参加していた人も離れてゆく。農の会自体が終わるのだろうと感じられた。私の生きてきた意味が断ち切られた。この頃から、私の中では放射能汚染という事より、人間の分断という事にこの事故の意味に変わる。原発事故は文明の転換期ではないかと考えるようになった。科学の進歩ということを正義としてだけ見てきた文明が、転換しようとしている。科学の成果というものの中に生きている責任が生じている。科学に生かされているにもかかわらず、科学の問題点に目を向けてこなかった責任。経済競争に勝利するためには危険は承知で進んでしまう愚かさ。あの公害の教訓を学んでいない社会。この現世界の文明というものが人類を滅ぼしてしまう。この事故を教訓に人間は新しい文明の世界に進むことがなければ滅んでしまう事になるのだろう。

問題は放射線というものの人体における影響の科学的な分析である。例えばガンになるリスクというものはどの程度のものであるのか。意見があまりにも分かれるので結局のところ何を信じてよいのかが見えにくい。私は、原爆投下によってどういう結果が出たかの調査が一番参考になると考えた。

これはあくまで私個人の判断である。人に参考にしてもらえるものではない。その前提で考える。放射線というものの宇宙からの強い影響下に地球に存在する。人間は常に放射線を受けて生きている。放射線の影響というものは土地によって極めて強いところもあれば、弱いところもある。そこに原発事故によって、加わった放射線量の影響を加味して考えなければならないということなのだろう。そのように微細な放射線の影響というものが疫学的にどういうものであるかは、極めて見えにくいものになる。その為に、恐怖を覚えるほど、怖れる人もいれば、大したことはないと何も気にしない人も出いる。それそれが判断して考えるほかないことである。

8年が経過しようとしている。その中で幸い、原発事故に関する疫学的調査および、2巡目の甲状腺がんの検査結果では、放射能自体の影響はほぼみられていない。(シノドスに掲載されている記事である。)18歳以下の成長期の人に対して放射線は影響すると言われていた。そこで福島県では継続的に甲状腺がんの調査を続けてきた。しかし、幸いなことに疫学的な意味では福島と他地域の違いは現時点では起きていない。チェルノブイリの調査とは違った結果になっているらしい。ただしこの検査や分析に関しても疑問がでている。私はこの検査と分析は信頼してよいと考えている。放射能の影響よりも、原発事故に伴うその他のことによる影響の方が多いい。例えば、風評被害で生活できなくなった福島の農家。今でも福島産の方が価格が低いと言われている。今でも輸入禁止を続けている国もある。風評差別というようなことが恐ろしい。

東電は東海第2原発の再稼働を行う。もんじゅは廃炉が決まった。しかし高速増殖炉の開発は断念しないとしている。高速炉開発を断念すれば、核燃料サイクルの破綻が鮮明になる。そうなると、青森県で建設中の再処理工場をどうするのか、全国の原発でたまっている使用済み燃料をどう取り扱うのか。高速炉の開発を続け、核燃料サイクルの破綻をごまかそうというのである。破綻した政策を延命するため、税金や電気料金の形で国民に巨額のツケを回し続ける。政府は判断力を失い、過去の判断を変えることができない。原発に関する判断は後手に後手に回り、問題に向かい合おうとしない。政府はまともだと思えなくなった。まるでフクシマ事故がなかったかのように、日本は進もうとしている。再生可能エネルギー分野でも日本は世界から後れを取るようになってしまった。政府は既得権益を守るということ以外念頭にない。そして多くの国民もそれを良しとしているようだ。もう何を書いて居るのかもよくわからなくなってきた。

福島で保護された2匹の猫が石垣島まで一緒に来た。ルルとララの2匹だ。福島の原発のすぐそばで野生で暮らしていた猫が産んだ子供だ。事故の頃に生まれて野生化していた猫のようだ。8歳になる。原発のそばの野生化した動物たちはどうなったのだろうか。イノシシなど、小田原でも放射能汚染が強い動物だ。調査をすれば、放射能の影響の実際が見えてくるのだろう。

 

 

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