安倍改憲論の破たん
安倍氏は公明党を忖度して、加憲という形だけの改憲論に変えた。その程度憲法改定をなぜこれほどの無理をして行うのか。自民党憲法草案が国民に受け入れられないと考えるからだろう。狙いは自民党草案であり後は何とでもできるという思惑。9条に自衛隊という言葉は加えるが、9条自体はそのままの形で残すという手法である。後は解釈の変更で何とかなるという破綻である。憲法を変えるなら、憲法の位置づけを明確にすることが前提である。憲法をないがしろにする人間が憲法改定を悲願にする自己矛盾。何故、こういう無意味な改憲論に拘るかと言えば、政治家一族の意地のようなものと考えるしかない。憲法改定を行った立派な政治家であると、名を残したいというような程度の低い意地ではないか。憲法というものは理想論に過ぎない。棚の上にあげて置き、現実の政治はそれとは別に行っているという実感があるのだろう。たまに憲法上問題がありそうな場合は、内閣法制局に新解釈をさせれば構わないというのが、アベ内閣である。こうした立憲主義とは程遠いアベ内閣には憲法の存在意義など理解したくもないのだろう。立憲主義における憲法はあらゆる権力に対して、こういうルールに基づき、政治を行えと制限を加えている物なのだ。
権力というものは自由に動きたがる。特に保守政権はその傾向が強い。そういう自由を自ずと持ちたがるものだ。権力者は自分の思い通り、制限なく政治を行いたいに違いない。憲法の制限で思い通り行かないことがあれば、憲法が邪魔だと考える。権力の邪魔になるように存在するのが、憲法である。例えばアベ政権のように近隣諸国が悪い奴らで、武力を増強し、日本に攻め込み支配しようとしていると考える権力もあり得る。先制攻撃をして、その力を弱めなければならないと妄想をたくましくする。すると、憲法を変えて自由にそういう暴力行為が出来るようにしなければ、抑止力にはならないと考えるようになる。憲法では平和的努力で国際問題は解決しなさいとされている。ところがそんなものは理想論で、現実世界の力の闘争を知らない奴のたわ言だと、占領軍アメリカの日本の力を弱めるための謀略憲法だと言いたくなる。日本の保守層の発想では平和外交などきれいごとで、現実社会では無意味だと結論を出している。ここにアベ憲法改定論の破たんが潜んでいる。
また、国民の多数派も安倍氏と大きくは違わない様に考えている。こうした多数派の武力主義への移行は世界的な傾向でもある。その背景は経済戦争が起きているからだ。強い国の関税要求を認めない奴は、経済封鎖だ。それでもいう事を聞かないなら、武力攻撃も辞さないぞと脅す世界。力で経済的な有利を導き出そうとしている。良い製品を作ることが経済競争であるはずなのに、貿易の不均衡に対して軍事力で脅かして変更しようとまでしている。自動車の輸入台数制限を認めないなら、核の傘から取り除くというような暴力主義である。まさに暴力団のメカ締め料取り立てと同じことだ。武力のある強い者が正義となる過去世界への先祖返りだ。こうした経済戦時下、大親分にたいして、いくら手下になるから許してくれと言っても、もっと上納金を持って来いと言ことになる。この事態を抜け出るためには、弱い者同士が、団結して暴力団お断りの正義を張り出すことしかない。一度メカ締め料を払えば、泥沼関係が生まれるだけだ。
おおよそこんなところがアベ憲法改定論のうまれた背景だろう。経済戦時下自由にやらせろ、そうでなければ日本はつぶされるぞという、怯えで歪んだ幼稚な弱小暴力団的考えなのだ。弱い者同士の連携だけが戦時下をくぐりぬける道である。断固暴力団お断りが、日本国憲法にある理想論である。日本が弱い国の連携を進めるためにも、平和憲法のある武力的には弱い国である必要がある。堂々と武力はないが、平和外交を進める。世界は弱い国ばかりなのだ。そうした国の灯台に日本がなる。格差の年々広がる状況に対して、弱いものの一人として日本国があるという正義を示すことが日本の正しい選択ではないか。世界の崩壊を食い止める唯一の道ではないか。少なくとも日本国憲法はそういう道を指し示している。