金メダルの為に暴力指導

   

暴力指導は良くない。当たり前のことだが、暴力指導で強くなるという現実も無視できない。競争から降りれば暴力禁止は簡単なことだ。暴力が直接手を上げるという事だけでなない。何週走れというような暴力的練習法。言葉の暴力の場合もある。現実の場面では境目は極めて難しい。相撲の稽古での可愛がりというようなものは、暴力なのか、稽古なのか判別が不可能だ。昔はみんなそうだった論理は論外であるが、スポーツで強くなるためには一定の強制力が必要。一人で強くなることはできない人もいる。多くの金メダリストがサポートしてくれた人に感謝の言葉をまず述べる。社交辞令だけではない気がする。回りの手助けがなければ金メダルが取れないところまで、スポーツは先鋭化している。見ている私も日本選手が勝てばうれしい。でも私の嬉しいぐらいでは。選手は自分の道を究めたいに違いない。自分というものをやり尽くしたいのだ。その時回りからの暴力が、そう単純なことではないのだろうが手助けになることもある。

自発性の問題だとも良く言われる。暴力指導で引っ張ってもらわなければ弱い人間だからすぐ怠けてしまうので、という暴力を自ら望む人も少なくないだろう。選手の希望であったとしても、指導コーチが暴力を振るう事も行ってはいけないという事になる。もし、暴力を了解事項として金メダルを総なめにするスパルタ国が出てきたらどうするのだろう。スパルタ教育と言われるくらいの暴力教育を行いアテネに勝利する。ギリシャ時代から繰り返されてきた問題なのだ。アマチアスポーツ界でも兵役免除とか、賞金とか、出世とか、そいう直接的恩恵は許されるようになった。古代オリンピックの堕落は優勝者の特別待遇にあった。その為に近代オリンピックでは50年前にはご褒美的なものは一切禁じられていたのだ。その結果共産圏の選手に勝てなくなってしまった。プロスポーツの何がいけないんだ。プロが出ればアマチアには負けないという事が潮流になってしまった。人間性への金の暴力という事なのかもしれない。

強くなるという事は尋常なことではない。きれいごとで勝てるのかという問題は残る。分かりやすい暴力を排除したからと言って、片付いてはいない。繰り返しこういう問題が起こる。スポーツ団体がパワハラ体質になる根源でもある。金メダルをとれれば、どんなパワハラ団体であれ、評価される団体になる。そして、時代に取り残された形で、スポーツ界のパワハラ構造が浮かび上がっているのだろう。女子レスリングは、あの金メダリストを多数輩出した名物コーチがパワハラで止めて、アジア大会で金メダル0である。オリンピックであんなに金メダルをとる女子レスリングがまったく力を出せないのだ。とんでもないようなコーチだからこそ金メダルが取れたという事実はあるとしなければならない。きれいごとではない。そういうものも含めて金メダル至上主義のスポーツの在り方を見直すべきではないか。指導方法の問題以上に、スポーツ界全体の倫理の問題が問われているのだろう。勝ち負けを超えたところに、スポーツはある。道としての倫理が確立していないで、修行をするのは道を誤る。オウム問題と似ている。

果たして企業や政治の世界はどうだろう。出世とか給与とか、いろいろの恩恵で頑張らせ競争させるのだろう。ブラックとか言われていも、競争に負けるわけにはいかないという現実がある。経済の競争においてはスポーツよりも激しく、醜く、汚い競争があるはずだ。社会貢献とか、企業の倫理とか、そういう建前を超えて、ひどい状況になっていると思う。スルガ銀行の組織ぐるみの腐敗はまともとは思えないものだ。安倍一強の自民党の内部の暗闇。当選という金メダルが思想信条を支配している。自動車会社のデーター偽装なども、安全よりも利益優先の競争の結果だろう。暴力指導の背景にあるものは、競争があれば必ず存在するものだ。選手がドーピングするのも自分に対する暴力だろう。直接の暴力だけ目を向けていては、表層だけの話で終わる。東京オリンピックでの金メダルが、すでに選手への暴力の側面があるのだ。この暴力を正邪で判断するのではなく、金メダルとは何かを選手自身がとらえなくてはならないのだろう。何のためのスポーツかである。

 

 

 

 

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