オウム死刑執行

   

死刑は必要と考えている。オウム死刑囚の死刑執行は残忍なことだと思うが、当然必要なのことだと受け止めている。死刑執行に伴い、真相解明がなされないまま残念という事が言われる。私は十分に真相は解明されていると思う。ただそのことを社会が受け入れないという事だろう。オウム事件も、赤軍派の事件も起こるべくして起きている。関係のない人間が殺されてという事が良く言われるが、偶々そこに居合わせた人という意味ではそうなのだが、社会としては関係のない事件として、理解してはならないと思っている。テロ事件というものは社会の病巣に発するのだ。しかも、赤軍派もオウム真理教も現実政治への絶望的な思いがテロへ繋がっている。このままでは日本という国がだめになるという政治的思いが、無差別殺人という最悪の行為に繋がっているのだ。この現実政治への批判というものが、余りに幼稚である。確かに論理性に欠けている。しかし、世の中おかしいではないかという気持ちは間違っているわけではない。

赤軍派の武装化も、オウムの武装化も、アベ政権のソフト独裁を予見している。このまま進めば安倍独裁の意味する階層社会になるという叫びが根本にある。だからと言って武力主義を正当化するというのではない。70年が分かれ道であった。そしてオウムが1万人以上の信者を集めた、80年代。社会が膿み、腐敗してきた中でのあがきのようなものがオウムと考えられる。この方角の行き着く先で起きた爆発が福島原発事故だ。大きな地獄の方角を示す、どす黒い腐敗の池が曲がり角ごとに示されているようだ。転げ落ちる石は、坂の途中で止めることはできないと言われる。まだ地獄の底までは来ていないという人もいる。ただ、こうした時代を生きてくるに従い、もう正面から戦う事は出来ないのだろうという気はしたいた。共通の価値観の仲間を作るという以外に、心地よく生きるという事は出来ないのだろうという気持ちが強まった。

批判する者の牙を抜く扇動が行われているのだ。オウムや赤軍がそのような材料にされてきたのだ。テレビの解説では誰もが、オウム事件が解明されていないと物知り顔に説明を繰り返した。これが扇動なのだ。その自覚もないテレビの世界。オウム事件を訳の分からない事件と位置付けて終わりにしたいのだ。確かにオウム非道を許してはならない。私もあの日、あの地下鉄に1時間前に乗っていたものだ。怒りと恐怖はまったく他人事ではない。しかし、アベ政権下の現状はオウム事件があった時以上にひどい状況である。オウムすら現れないほどひどいというと誤解されるか。半分人間性が失われ始めていると言ってもいい。それぞれが、生きるという事に向かい合う本気を間違い始めている。だから、カジノである。賭博にのめり込むようなことが生きざまになる社会。まともに自分の人生に向かい合うという事が出来ない社会。

オウムのことは日本人であれば、自分のこととして考えなければならない。他人事として批判して終わるということではここから、日本の社会が学ばなければならない大切なものが抜け落ちる。確かに赤軍派もオウムも極端に歪んだ存在である。しかしこの歪みの背景には日本社会のおかしな方角が反映していると感じる。内なるオウムと向かい合わなければならない。日本人の中にはどれほどおかしなものであれ、惹きつけてしまう素地が広がっていたのだ。アベ政権を信仰してしまう事と、創価学会を信仰してしまう事、そして、テロ集団を信仰してしまう事。どれもが共通の科学的論理を否定したくなる背景があるのだ。アベ政権が骨太の政策と言えば、無批判に従いたくなる現状。中国が極悪非道の仮想敵国と思いたくなる現状。背景には現実社会の閉塞状況である。それがここ40年続いてきた日本の社会方角ではないだろうか。この間私たちが学んだものは、社会など相手にしないという知恵である。これでいいのだろうかと思う毎日である。

 

 

 - Peace Cafe