田んぼで気お付けなければいけない事
田んぼを借りて、一番難しいのは地主さんやご近所とのお付き合いだろう。特に水については、水利組合など昔からのしきたりもあるので、新しく始めるものはまずはおかしいと思っても、受け入れることにする。そうではあるが、泣き寝入り的に曖昧にするのも良くない。お借りする前にそのあたりのことを十分確認してからお借りする。それで田んぼがやれなくなるとしても、始めてから問題化するよりは良い。自然農法でやりたいと話して、始めさせてもらえなかった経験がある。自然農法でやるなら貸さないという事が理由だった。黙って始めればいいかもしれないが、農薬を使わないというようなことも話した方が良い。そういう田んぼからは草の種が流れてくると思う人もいる。ウンカなどの集団防除をすることになっている田んぼもある。田んぼを借りるという事と、水を貰うという事が別になっている田んぼもある。水利組合費という名目で地代の半分くらいとられる田んぼもある。
田んぼをよそ者に貸したがらなかったのは、水の慣習が地域でのかかわりだったからだ。今も水利組合の活動が生きているところもあるが、小田原ではほぼ失われているといえる。酒匂川左岸の永塚、千代辺りの水利組合では、組合費を地代の様に集めている。3面張りの水路になった今水利組合の役割はどうなっているのかはよく見えなくなっている。水利組合に活動の説明を求めて2度伺ったが、一向に内容は分からなかった。田んぼをやる人が減ったこと。田んぼをやっていても払わない人がいることなどの説明を受けた。だからよそ者は困るという感じだった。払いたくないならやめろという事のようだった。そうした地域で田んぼをやるのを避けるようになった。お金が惜しいというのではない。必要なものなら応分に負担したい。しかし、分からないものにはかかわりたくない。小田原でも久野地域ではそのような課徴金のようなものはない。
私は久野を中心に田んぼをやるようになった。久野は気持ちがいいからである。自分が住んでいるのだから近くて良いという事もある。住んでいる舟原では水利組合はない。それぞれが自分の水路を管理している。田んぼをやらしてもらっている欠ノ上の集落では水利組合はあることはあるが、水利組合費はない。組合の活動というものもとくにはないようだが、それぞれが田んぼの周辺の水路管理はしている。又水門管理責任者も引き受けている。自分のかかわる水路は自分で管理するという事のようだ。それはお隣の坊所でもそうだった。水が余るようになって、水の争いが減ったという事もあるのだろう。こうして田んぼをやらしてもらって久野の気質の良さをさらに知った。田んぼをやって初めて久野を知ったともいえる。そんな久野でも揉めごとがない訳ではない。もめ事を避けたこともない。正面から主張して解決まできちっとすることにしている。田んぼは地域にとってそれほど大切なものだと考えているからだ。
久野小学校に農家の子供は一人もいなくなったそうだ。ますます、田んぼや舟原溜池が大切になる。地域というものが、田んぼをの水を共同管理する時代はおわった。水路の管理維持をする。部落の共有林の下刈りや枝打ちをする。こうした地域の仕事が実質的に意味があった時代は終わろうとしている。終わってしまったところも多いだろう。それでも地域というものはある。そこへ、田んぼを借りるという事で入ってゆく。果たしてどういう事になるのか。迷惑と感じる人の方が多いことだろう。しかし、感謝してくれる人もいる。地域の協働が失われ、地域は都会と変わらなくなっている。しかし都会とは違う要素がいくつかある。老齢化している。年寄りが一人で暮らせる便利さがない。 田んぼをその土地でやらしてもらうという事は、ある意味地域の準会員位の立場になる。地域で困っていることには積極的にかかわってゆく。こういうことは都会の人は苦手であろう。確かに最初はうっとうしいかもしれない。しかし、これが案外にそうでもないという事が段々にわかるはずだ。