石垣で描いている。
石垣でいつもの場所で絵を描いた。小田原を出掛けてその日の午前中から、絵が描けるのだから、ありがたいことだ。小田原発4時30分の電車で羽田に向かう。羽田発6時35分の石垣行の直行便に乗る。10時過ぎにぱいぬしま石垣空港着く。飛行場にはレンタカー屋さんが待っていてくれる。今回はすぐにタントを借りることができた。いつもオリックスレンタカーハイビスカス店で借りている。ずいぶんの回数を借りた。そのたびにタントでないと困るということでお願いしている。それでも前回違う車しか借りられなかった。今回はタントが借りられた。途中ファミマによって食べ物を買う。水を分けてもらう。写生の場所に着いたのが、11時。いつもより明るかった。昼過ぎまでそこで眺めていた。車の中で食事をして、いつの間にか昼寝をしてしまった。午後から描きだした。昨日寒い小田原にいたことがまるで嘘のようだ。窓を全部開いてしまう暖かさである。
牧草地は一面濃い緑である。草の海というが、牧草地はうねりながら、波のように動いている。牧草地の先に田んぼがある。そして海に続く。この広がりは何度見ても迫るものがある。冬というよりまるで夏景色である。一面の緑である。遠くに見える海は春の色だ。青というより桃色に輝いている。いつもはエメラルドグリンの海なのだが、コバルトバイオレットが混ざっている。自然の色という物はすごいものだ。絵の色が及ぶわけもない。目の前にあるこの素晴らしさは絵にも描けない素晴らしさという他ない。これに似たようなものを描くということなら、写真にしておけばいいだろう。この眼前の風景から私という人間が何を受け止めて描きたいのかのほうが大切である。ところが描き出すとそのことを忘れてしまい眼前の風景をどうするのかという、技術的解決を目指してしまう。そいう絵作り的なことを抜け出ることだ。田んぼに向かい合う気持ちで、石垣島の田んぼを見る。そして何が自分には見えるのか。このことだけに集中しようと思う。
石垣島に始めて田んぼを開いた人がいる。その人の気持ちに至りたい。。マングローブの密林のわきの湿地に初めて種をまいた人がいる。大切な種もみが芽生えるまで、心配したことだろう。それから数千回の耕作が繰り返された。人間の作りだした景色ということに思いを至らせたい。人間が生きるということが風景にはあると思う。風景を眺める人ではなく、風景を作り出す人間の絵を描いてみたい。田んぼをやるときは絵を描くように、絵を描くときは田んぼをやるように。このことを実現したいので生きているようなものだ。せめてこのことを体感して生きていて、見ているということが絵に表われていなくてはならない。絵はそいう意志的なものにほかならない。絵は私という人間が描いたというところだけが問題なのだ。石垣島の田んぼであるというようなことは、どうでもよいことになる。田んぼが美しいということよりも、美しいと感じる自分のことを問題にするほかない。当たり前のことだな。
昨日描いた絵を考えている。自問自答して、何もできていないということになる。あまりにできないので、絵で出来ないことをやろうとしているのかと思う。それでも今日ももう一度できるまで描いてみたいと思う。せめて繰り返しにならないように試みたい。今回は昼間に少しお寄りして、実は珍しい方にお会いした。こちらで有機農業で熱帯果樹を生産されている方だ。その方の姪の方が、今台湾で暮らされている。まだ10代のころに養鶏に興味があり、小田原に訪ねてくれたのだ。その人は今台湾で農業をされているという。そして、今回日本に戻られた機会にお母さんと一緒に訪ねてくれたのだ。それは私が石垣に行くなら、叔父が石垣で農業をされているということを教えてくれたのだ。もうお会いすることができた。石垣の話をお聞きすることもできた。こうしてよい出会いをいただけるのは何かの因縁だろう。まだまだ石垣の空は暗い。小田原より1時間半夜明けが遅い。早く明るくなってほしい。田んぼが待っている。